第八章
[11]隠蔽I
蒼とファーンが対峙するこの場に、サイクレスはいない。蒼が見張りとして離したのだ。
サイクレスは収容者のいる独房の廊下で、燈された明かりに映らぬよう身を潜めている。
未だ甘酸っぱい睡眠毒の香りの漂う地下牢は、囚人と看守たちの微かな寝息以外、音はない。
その為、離れていてもサイクレスには蒼たちの会話が聴こえている。
だが、軍人であるサイクレスは与えられた職務は放棄できない。蒼とファーンの会話が気になりつつも周囲に気を配り、呼吸すら最小限に抑えて留まり続けている。
(兄上・・・・・。やはり貴方が・・・・・)
警戒を怠らないサイクレス。だが、周囲の変化を鋭敏に感じ取ろうとする程に、蒼たちの会話は聴こえてしまう。
頭脳労働は苦手だ。だがそれでも、あのような死を遂げた兄のこと。その可能性を考えなかったわけではない。何より地下通路を教えてしまったのは自分だ。
兄への敬愛と信頼から、地下通路は毒薬の解毒剤を手に入れるために使用されたのだと、思い込もうとした。何より、兄に頼られたときのあの誇らしい気持ちまで壊したくなかった。
兄を死に追いやってしまった罪の意識を、その想い出だけが紛らわせてくれたから。
だが、真実の前で願望など儚い。
母との固い約束を破り、あんなに無惨な形で皆から兄を奪ってしまった自分。
それでも王や国の役に立てたならばという最後の支えは、ほんの数日行動を共にしただけの蒼によっていとも簡単に砕かれてしまった。
いや、真実は既にフレディス副長が暴いていた。蒼はきっかけを作ったに過ぎない。
この十年、裁かれずとも罪の意識を捨てることの出来なかった、正義感の塊サイクレス。
彼はもう覚悟していた。
それが誰かを不幸にするならば、罪は暴かれ裁かれなくてならないと。
サイクレスの主君は皇女ジュセフ。彼女を救わねば、己の妄執などに固執してはいられない。
(・・・・・・蒼殿に話そう)
闇に溶ける、月夜の空と同じ藍色の瞳には、決して闇に囚われない堅い決意が宿っていた。
「・・・・出生の秘密。それは私の資料から読み取ったのか?それとも・・・・・・」
ファーンの低い声に動揺はない。質問を想定していたのだろう。
やはり。いや、寧ろ知らない方がおかしいか。
「サイクレスさんが教えてくれました」
さらりと答える蒼。
「・・・・そうか」
ほんの一呼吸、間が空く。
「何故?」
わざわざそんなことを聞くのか。
「いや、サイクレスは随分あなたを信頼していると思って」
はぐらかすファーン。声には含み笑いなのか、楽しそうな色が滲む。
「まあ、多少は信頼いただかないと。仕事が遣りづらいですから」
投げ掛けられた言外の意味を汲み取りつつも、素知らぬふりの蒼。
互いに、食えない奴だ、と思う。
「それはそうと、サイクレスさんにクラウドさんの出生の話をしたのは貴方ですね?」
今度は蒼が質問で不意を突く。
サイクレスは、クラウドの父親をアドルフだと断定したわけではない。あくまで憶測であり、確信はないと言っていた。
そして母親であるクレディアは生前何も語らず、かといって、神官職を退いた後に産まれたサイクレスが、皇妃リュシアンヌと接点があるとも思えない。
となれば、クレディアとリュシアンヌのやり取りは、別の誰かから聞いたことになる。
そして、恐らくサイクレスの周囲でもっとも情報通なのは、この副長。
彼の部下たちは上司に似て、脳まで筋肉な集団であったし、唯一頭脳労働派の副官ダンジェもサイクレスが望まないことに尽力するとは思えない。
よって、考えられる情報源は一つだけ。簡単な話だ。
|あなたにお会いしたときから薄々感じてはいましたが、調書を読んで確信しました」
それは、リュシアンヌ付きの産婆ラナイの証言。
クレディアとのやり取りの場にいた彼女は、サイクレスと全く同じ内容の証言をしている。そしてこんな言葉もあった。
(クレディア様のお体が回復するまで、しばらく皇妃様の離宮で療養されることになりました。一時期の危険な状態は脱したとはいえ、まだまだ安静が必要でしたから。それなのにクレディア様はご懐妊がわかってからというものすっかり塞ぎ込まわれ、お食事にもほとんど手をつけられません。本来でしたら、女性らしく、ふっくらとし始める時期ですのに、クレディア様は日に日に痩せてしまわれて。心配された毒操師の緋様が、何度も様子を伺いに足を運ばれていましたわ)
調書の文面から、おっとりと話す姿が想像できるラナイは、リュシアンヌの三人の子供を取り上げたベテランの産婆だ。調書を取った当時でさえ結構な高齢である。それが更に15年以上前の記憶。忘れていても仕方なかったが、彼女は意外にもハッキリと覚えていた。
恐らくそれほど印象深い出来事だったのだろう。
そして、緋がクレディアの様子を見に来ていたという証言。
蒼は考えられる可能性を口にしたる。
「当時の緋はアドルフ王付きの毒操師。クレディアさんとは個人的に旧知の仲だったのかもしれません。ですが、問題は緋が頻繁に訪れていたということ。恐らく緋はクレディアさんに何らかの治療を施していたのではないでしょうか。そしてそれには、十中八九アドルフ王が関与している」
25年から30年以上前というと、エナル皇国全盛期の少し前、皇王付き毒操師緋が、毒薬ではなく疫病や伝染病に効く薬を開発していた頃だ。
神官クレディアと緋はともにアドルフの側近。それも、ハーディスの伯父イディオンや砂漠の黒牙グレイ=オーファン、政務長官ヒューレットなどとは違い、騎馬民族時代からの戦闘要員ではない。
常にアドルフの傍近くに仕え、時にアドルフの意向を真っ先に聴く立場にある。接点も多い上、アドルフ王を含め、互いに日々の行動を隠す事は難しい。
だからこそ緋は察したのだろう。
アドルフとクレディアの空気の変化に。
「クレディアさんの体調不良に緋の頻繁な訪問。或いは、堕胎を考えていたのかもしれません」
さらりと衝撃発言をする蒼。だがそれも、考えられる可能性の一つだ。
しかし、いくらエナル皇国に特定の宗教が定着しない、自然神信仰国であっても、中絶は当然タブー。いや、自然に反するような行為に対しては、他国より厳しいと言ってもいい。
「・・・・・そのことについて確証となる証言はない。クラウドに障害もなかった」
扉の向こうの声が、幾分沈んだように響く。
中絶の可能性にファーンが気付かないはずはない。きっと一度ならずとも考え調べたことだろう。しかし、親友が誕生しなかったかもしれないなど、気持ちのいい仮定ではない。
「・・・そうですね。堕胎は大変危険な行為ですから。胎児を殺める為、母親自ら毒を摂取しなくてはなりません。当然胎児だけでなく、母体にも影響が出ますし、万が一堕胎を免れて産まれた場合は、子供に何かしらの障害が残ることは必須」
子供を堕すという行為には、それだけの覚悟が問われる。何より、殺人と変わりはない。
だが、いくらタブーとして取り締まっても、中絶が無くなることはない。蒼自身、何度も依頼されたことだ。
依頼主は妊娠した本人だけでなく、不義の事実を隠そうとした娘の親や、妻子持ちの男が愛人を無理やり連れてくるなど様々だ。
勿論、蒼は一様に断っているのだが、ごく稀に、やむを得ない事情で依頼を引き受けることもある。
胎児が育たない状態だったり、母親か胎児のどちらかが病に侵され、命の危険がある場合などだ。
だが、それでも連れて来られた妊婦自身が産みたいと言えば、例え出産で命を落とそうとも、蒼は依頼を引き受けない。
たった一人でも、誕生が望まれている命。消し去る権利など誰にもない。
時に母親は、自分の命を削って子を守ろうとする。その行為を蒼は尊いと思うのだ。
だが、緋はどうだろう。そしてクレディア自身は子を望んだのだろうか。
毒操師は各々の基準によって、依頼の引き受けを決める。したがって、基準をクリアしなければ、どんなに権力や財力を持った人間であろうとも、毒操師に仕事を強要することは出来ない。
毒操師は国の法が届かない存在。それ程に、毒薬を自在に操るという行為は危険なのだ。
自分の責任は自分で取る。他人に選択権を委ねない。
私利私欲や怨恨の手段として使われることの多い毒薬だが、それは全て依頼人である他人の感情。毒薬使用の許可を出す、毒操師の判断や思惑とは別のところにある。
しかしそれも、蒼のように仕える主を持たない毒操師の話。
王に仕える緋は、毒薬使用の判断基準を、己の主アドルフに委譲している。大量殺人とて容易いその力は、使い方を誤れば、自身も大きな痛手を受ける両刃の刃。
果たして、アドルフは緋を正しく使うことが出来たのだろうか。
「恐らく、クレディアさんに毒薬の服用はないでしょう。ですが、可能性が全く無かったとは言い切れませんし、結果的に服用しなかっただけかもしれません。少なくとも、懐妊発覚の段階では、クラウドさんが望まれた子供ではなかったことは事実です」
もしかすると、日に日に衰弱するクレディアの身体では、赤子を産むのは不可能だったのかもしれない。かといって、弱った状態で堕胎薬を飲めば、クレディアもただでは済まない。
蒼が引き受けた依頼でも、母体の健康状態により、どちらも助からなかったことがある。
アドルフは赤子を生かそうとしたのか、それともクレディアを失いたくなかったのか。
真実はまだ解明されていない。
「国に一人しかいない神官。しかも独身のクレディアさんが懐妊すれば、注目を集めるだけでなく、当然父親は誰かという問題になります。ましてやクレディアさんはアドルフ王の側近。行きずりの男性に出会う機会などそうはありません。自然、周囲は、父親が皇城内に出入り出来る人間と考えるはず。そしてもっとも彼女と接する機会の多い、アドルフ王に考えが及ぶものもいるでしょう。そのくらいの推理推測は、懐妊の事実が知れれば容易です」
クレディアは神々しい程に美しい女性だったという。そして当時のアドルフはまだ身体も頑健な三十代。この数年後に親子程も歳の離れた、女族長ネイシスの孫娘と唯一の皇女ジュセフをもうけている。
二人が結ばれても不思議はない。
「・・・・だが、事実は隠し通された」
「ええ、貴方の調書からも隠蔽は明らか」
ラナイの証言はその後も続く。
それは何度目かの緋の訪問の時。
(緋様はある日、一人の紳士を離宮に伴われました。婦人の、それもご体調も優れない妊婦の部屋に殿方が入るなど、とても許されることではございません。当然、入室をお止めしました私に、緋様は問題ないと、その方を通されてしまいました)
緋が連れてきたという紳士。アドルフのシナリオが読めるてくる。
(離宮に来られた時から、その方はとても深刻で真剣なお顔をされていました。寝台のクレディア様をご覧になると、痛ましげに瞼を伏せられ、ひざまずいてクレディア様の手を握られたのです)
ラナイはそこで緋に促されて退室したのだが、男が帰った後、クレディアの様子が大きく変わったと証言している。
(それまで、お腹のお子様の為だとどんなにお話しても、なかなかお食事が進まなかったのですが、少しずつご自分から召し上がるようになられたのです。程なく体調も回復され、クレディア様は神殿へとお戻りになられました。そしてその方、アーネスト=へーゲル様とご結婚なされたのです)
アーネスト=ヘーゲルはクレディアに求婚していた男たちの中で、もっとも身分の高い貴族だった。
国の歴史が浅いエナルにおいて、身分とは力の証。
クレディアと子供の身と秘密を守る為、アーネストは代理父に選ばれたのだ。
恐らくは、アドルフ自身の手によって。
「クレディアさんはそれを受け入れた。何より王の命令ですから」
「・・・・・」
それはまた、エナル皇国唯一人の神官クレディアへの、最後の命令だった。
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