第八章
[10]隠蔽H
地下牢に拡がるのは、床を這い回る虫の触角の音さえ聞こえてきそうな異様な静寂。
周囲を空き部屋で囲まれた独房は音が少ない。自分の息遣いさえ意識してしまう程だ。
僅かに廊下の明かりが漏れ差すだけの暗い牢内。聴覚は嫌でも研ぎ澄まされ、鋭敏になる。
収容されてから丸一日。情報の整理や今後の対策、考えなければならないことは山程あり、またそれが今の自分に出来る唯一のことでもある。
ファーンはひたすら考え続けた。
己の策を実現する、実行者が現れるまで。
「・・・・・・・」
壁を向いたまま微動だにしなかった首が、僅かながら緩やかに動く。
漏れ出た明かりに、まだ艶を失っていない赤褐色の髪が浮かび上がる。燻した銀縁眼鏡の輪郭がなぞられ、嵌め込まれている純度の高い硝子が白く光った。
扉を見る。
日取りも時間も、訪れる約束さえ決めていない。
だが確信していた。
彼らには自分が必要であり、自分もまた彼らを必要としている。
来訪は必然だった。
そしてーーー。
日の当たらない地下牢の澱んだ空気を僅かも乱さずに、彼ら、いや彼女は現れた。
自分の調べ上げた全てを頭に入れて。
「・・・質問があります、十年前の事件について」
蒼は、余計な話で時間を無駄にすることは無かった。
もとより、その時間もない。
無表情に変化は見られない。だが内心、僅かながら焦りが生まれていた。
審議会まで後二日。それまでに何としてもジュセフ皇女と緋の無実を証明する手掛かりを掴まなければならない。
さもなくば拘束された三人は勿論、指名手配中のサイクレスも助けられないのだ。
魅煉にてファーンの資料には全て目を通した。しかしあくまで証言の綴り。明確な答えや結論が書かれているわけではない。
それでも十年前に何があったのか、おおよその見当はついた。
そして蒼の中で、一つだけ解明された事実があった。
何故、事件がこのような結末を迎えたのか、何故こうまで話が複雑に捻れてしまったのか、経緯や詳細はわからない。事件の発端もその動機も推測するしかない。
だが、これだけは間違いなかった。
「・・・・・アドルフ王に毒を盛った実行犯は、皇王を救った英雄クラウド・ティス=ヘーゲル。サイクレスさんのお兄さんですね?」
抑揚の無い、淡々とした声。
痛い程の静寂を破る感情のない声は、それが変えようもない事実であることを容赦無く突き付けていた。
「・・・・・・・・」
蒼の言葉に、扉へ向けていた首を戻し、瞑目するファーン。
質問は予想通りのものだった。
僅かな明かりは瞼に遮断され、完全な闇が広がる。だが、その黒々とした空間に、滲むように浮かび上がるものがあった。
(・・・・・・クラウド)
焼き菓子のような優しい色の髪、煙る夕暮れの雲と同じ灰紫の瞳。そして穏やかなあの笑顔。
無二の親友の面影は十年という歳月を経てなお、色褪せることは無い。寧ろ細かな記憶が薄れた分、脳裏に焼き付く印象はいっそうの鮮やかさを増している。
思いもよらぬ事実。だがそれこそが真実。
「・・・・・ああ」
肯定する声は静かで、安堵と哀しみが滲んでいた。
「サイクレスの兄クラウドは、私の友人だった。そして誰よりも将来を嘱望された男だった・・・・・」
闇に浮かぶ親友の残像。
中性的だが決して女々しくない、彫刻のように整った顔。記憶に残る優しい微笑み。
いや、寧ろ笑顔しか記憶に無いと言った方が正しい。
将来有望とはいえ、凄絶に命を散らしたあの時、クラウドはまだ青年とも言えない年齢だ。心身ともに未成熟な部分があって当たり前である。
だが、知り合ってから死に別れるその時まで、ファーンは笑顔以外のクラウドの顔を知らない。
「クラウドは誰に対しても分け隔てない男だった。有り得ないと思われるだろうが、あいつを悪く言う者は一人も居なかったのだ。
妬みや逆恨みさえ、無縁だった」
「・・・・・それはまた、随分と恐ろしい人物ですね」
黙ってファーンの話に耳を傾けるつもりだった蒼が、思わず唸る。
それが本当ならばクラウドという男、誰よりも巧みに立ち回る狡猾な纂奪者か、侵しがたい聖人君子ということになる。
前者ならば、どれだけの打算を持ってアドルフ王暗殺を企てたのか、因果関係の解明が非常に困難であろうし、後者だとしたら、そもそも動機を見つけること自体難しい。
いずれにしても一筋縄でいかないことは間違いない。
「・・・・ふっ」
蒼の言葉にファーンが薄く笑う。クラウドを褒めるでもけなすでもない率直な感想に、客観的であろうとする蒼の姿勢を感じて好感を抱いたのだ。
「確かに、そう考えるのが自然だろうな。知り合う前は私もそう思っていた。だが、あいつは打算的な人間ではないし、正論ばかりを振りかざすような世間知らずでもない」
事実、クラウドには相手の顔色を窺う卑屈さも、自分が絶対的に正しいと思い込む驕りもなかった。
「ただ知っていたのだ。己の行動が人々に注目されているということを。だから自分も他人も護るため、自然とそのような振る舞いを身につけた」
「・・・・・なるほど」
注目を浴びれば、人は自然と居住まいを正す。それが好意的である程に、他人が思うイメージに忠実であろうとする。
この皇城という限られた空間では尚のこと。一度イメージが崩れれば、その影響は支持する人間総てに及んでしまう。
クラウドは自分を良く言う人々を護る為、理想の自分で在り続けたのだ。
「意思の強い方だったんですね」
稀に見る善人か悪人かはまだわからない。だが貫き通す意思は本物だ。
「そう。どんな時も決して気も手も抜かない、クラウドはそういう男だった。
だが、この十年。事件の真相に近付く程に、あの笑顔の奥に一体どれほどの想いを抱えていたのかと、考えずにはいられない・・・・」
笑顔に隠された、親友の心の闇。
誰よりも高潔で優しい彼に、暗殺などという暗くどす黒い感情があるなど、一体誰が思うだろう。
クラウドを少しでも知る人間には、その最期さえ信じ難い衝撃だったのだから。
広場中央の泉、肌の色もわからないほど血に染まった顔。
集まった人々も思わず立ち竦む、粘つき渇きかけた血の生臭さ。
その全てに降り注ぐ細かな雨。
頬や髪にこびりついた血が、雨によって少しずつ剥がされていく。血の赤とは対照的な、青白い顔。
壮絶な死に様。だが口許にはいつもの微笑が浮かび、閉じられた瞼は眠っているかのように軽やかだった。
今にも目を開きそうな様子に、何故この友人は最期の時さえ心穏やかにいられるのか、そう思った。
だが、真実を知った今では別の想いが去来する。
あの笑顔の意味は・・・・・。
「クラウドの闇に触れ、その企みが事実であると確信したときから、私はずっと誰かに、この真相を暴いて欲しいと思っていた」
十年の歳月を掛けても、正確な証拠は掴んでいない。
だが、クラウドの足跡と彼の出生の秘密にたどり着いたとき、その真実は導き出されてしまった。
「・・・・・その一方で、あなたに調書を託せば、もしかしたら自分とは違う答えが出るのではないかと期待もしていた。私は、自分が間違っていると思いたかった」
異なった答えなど淡い期待。長年疑い続け、何度も検証した結果は、そう簡単に覆らない。
だがそれでも、友人の笑顔が嘘ではないと信じたかった。
「・・・・・しかし、やはり真実は変わらない」
力の無い声は、ともすると静寂に飲み込まれそうだった。
一方、絶望感を漂わせたファーンとは対照的に、蒼はどこまでも冷静だ。
「正直、クラウドさんが暗殺の実行者と判明したところで大した進展はありません。必要なのはその動機と背景です」
件の人物を知らない蒼に感傷など無い。求めるのは情報のみ。
「それに貴方にはまだ聴きたいことがあります。何故、貴方はクラウドさんの最後の行動に疑問を持たれたのですか?」
「・・・・何?」
聞き返す声は小さいが、弱くはない。
今は、ここまで来た毒操師に知りうる全てを伝えることが先だ。
「クラウドさんが握りしめていた解毒剤で、アドルフ王が助かったのは事実でしょう? 貴方が、広場で何があったのかを究明するならわかります。でも調べていたのはクラウドさんの足跡。
評判の人物像で判断するならば、毒を盛った犯人を突き止めたクラウドさんが解毒剤を巡って争ったと考えます。
でも貴方はクラウドさんの行動に疑問をもった。ご友人であるはずなのに、一体何故?」
誠実な評判が、一度も崩れたことのないクラウド。
彼の普段の行動ならば、毒薬の実行犯かそれに近しい人物と争い、殺害されたと考えるのが自然だ。
実際、現場検証を行った審議会から、事情を知るものたちへの説明も似たようなものだった。だが、発表には矛盾が多く、信憑性は薄い。
その上、ファーンにはどうしても消えない違和感があったのだ。
「・・・・・きっかけは、アドルフ王が彼の功績を讃え、オークス=ヴォルテールの霊廟近くに記念碑を建立することを決定したときだ」
エナルの民にとって、アドルフ皇王の存在は神よりも尊い。
それを命懸けで護ったとなれば、暗殺事件を知る者たちがクラウドを英雄と讃えるのは当然であり、記念碑の建立は皇王の感謝の顕れと見れば、特に不自然でも無い。
暗殺の事実が伏せられている以上、記念碑に名は刻まれないが、事実を知る者たちが胸の内でクラウドを偲ぶことは出来る。
それでなくともクラウドは一介の近衛兵士でありながら、爵位の高い貴族の長子。聡明な上、端正で繊細な容姿となれば、令嬢や婦人たちに人気がないはずはない。
また彼の明晰な頭脳は政治経済の有力者たちをも唸らせ、クラウドが十を幾つか越えた頃には、彼に助言を乞う者さえいた。
そんなクラウドのための記念碑。さすが皇王陛下だと、皇城のものたちは口々にアドルフを賛美した。
だが、ファーンの脳裏には、言い知れぬ違和感が残った。
建国の立役者であり、その功績と人柄で人々の尊敬を一身に集めた英雄オークス。彼は最後に全てを覆す大罪を犯した。
だが罪は、国政を保つため永遠に封印され、生死不明のオークスには悲劇的な死が演出された。
結果、英雄オークスはエナルの民にとって生きた神となったのだ。
そんな民のために創られた英雄の霊廟と、皇王の命を救った真の英雄の記念碑。
違和感の原因はそこにあった。
「もし、アドルフが心からクラウドの行いを感謝しているのならば、果たしてその二つを同じ場所に造らせるだろうか」
英雄の碑とだけ彫られた記念碑に、事情を知らない者たちはオークスの追碑と誤解するに違いない。
そう、記念碑と霊廟を並べて建てる必要などないのだ。
寧ろ、英雄の存在を誇示するためにも霊廟と離し、もっと万人の目に触れる場所に建てるべき。
そして勿論、それに気付かないエナルの統治者ではない。
アドルフは、敢えてあの場所を選んだのだ。
「オークスの反逆を知る者であっても、気に留る者はほとんどいなかった。単に同じ時期に建てるから、同じ事件だからなどと解釈して。さもなくば、王がクラウドを反逆者から身を護る為の守護神にしたなど、好意的な見方ばかりだった」
「・・・・・でも、貴方は違った」
蒼の静かな声が一段と潜められる。
「なぜなら、貴方はクラウドさんの出示をご存知だったから」
神官クレディアの第一子クラウドの出生届に記載された父親の名は、アーネスト=へーゲル。クレディアの夫であり、サイクレスの父だ。
クラウドは婚姻前に授かったとされている。
だが、誰からも好かれ、敵意を持つ者が皆無というクラウドの高いカリスマ性は、まさしく皇王アドルフから受け継いだものであった。
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