第八章


[01]追憶


出会いは、突然ではなかった。












私は彼を知っており、彼も私を知っていた。










彼の母親は私の母の友人だった。



母親どある彼女は、何の前触れもなく、時折訪ねて来ては、私の遊び相手をしてくれ、色々な話を聴かせてくれた。



童話や神話、伝説や歴史、時には日常の出来事なども。



彼の話もその一つ。



それは、歴史上の高名な人物の物語に比べれば、見過ごしてしまうような些細な出来事ばかり。だが、身近に同世代の人間がいなかった私には、遠くにいる友人の近況報告を聴いているようで、とても楽しかった。


物心がつく頃には、童話や神話と同じくらい彼の話は当たり前となり、知り合う前から、彼は私の身近で特別な存在になっていた。















きっと、彼の母親が特別だったからでもある。



彼女は仕事を持つ優秀な女性であり、非常に美しい人だった。

光の加減でほの青く見える銀紡ぎの髪。理知的に輝く青い瞳。たおやかでほっそりとした体に、透き通る白い肌。

とても子供がいるようには見えない。

まるで純真な少女のまま、時を止めてしまったかのような彼女。童話に登場する妖精の姿そのものだった。

彼女は私の憧れだった。


彼女が訪ねてきた日は1日中幸せな気持ちになり、帰り際には必ず次はいつ来るのか尋ね、早くまた来て欲しいとせがんだ。

そんな私に、いつも穏やかな笑みを浮かべては、優しく頭を撫でてくれる彼女。

細く優しい手は、緻密で繊細な作業が得意で、魔法のように様々な玩具を作ってくれた。



大好きな彼女、だが息子である彼には、十歳になるまで会うことがなかった。












初めて彼を見かけたとき、彼は一人だった。

社交界に出るには少し若い姿。しかし大人たちの中にいて戸惑いもせずに、壁際で静かに佇んでいた。


自分の周りにいた誰かが彼に気づき、囁いた。年若い貴族の娘だ。

それを受けて他の女性たちも囁き出す。


みな、まだ少年である彼に頬を上気させ、互いの袖を引き合いながら、熱を帯び潤んだ視線を送っている。


ふいに、誰かが私に、彼を知っているかと尋ねてきた。


印象的な姿の彼だが、記憶にはない。素直に、知らない、と答えると、耳元で別の誰かがまた囁いた。



彼は貴女がお好きなあの人の子供ですよ。


と。


そうして、大勢の中にあって不思議と目を引いた彼が、彼女の息子であると知ったのである。





彼は、髪も瞳も母親とは異なっていた。

焼き菓子のような優しい茶色の髪と、夕焼けの最後の雲を思わせる、紫がかった灰色の瞳。


とても綺麗だが、彼女の色彩とは違う。


似ているところと言えば、サラサラと風に煽られても絡まない、真っ直ぐな髪質くらいだろうか。

そう思いながら、私たちの視線は沢山の人の中で、人垣を縫うように絡み合った。

彼の眼差しは胸が痛くなるほど澄み、年齢は十を幾つか越えたくらいにも関わらず、外見にそぐわない落ち着いた雰囲気を漂わせている。

私は、その不思議なアンバランスに吸い寄せられるように目が離せず、彼もまた私を長い間見つめたままだった。












それからは、どこにいても私は彼を見つけることが出来、彼も必ず私を見ていた。

そうして、互いの視線は合わせるだけのまま、五年の歳月が流れた。








初めて言葉を交わしたのは十四歳の誕生日。


その日は特別に自分からダンスを申し込むことが出来る。



私は彼を指名した。



しかし、ダンスの序盤は踊る順番が決められており、また彼は友人らしき年長の男性たちと談笑していて、声を掛けることが出来なかった。


ようやく彼の前に立てたときには、宴の二部も終わりかけていた。

そんな中、突然指名され、彼は驚いた顔をした。


少しの沈黙。


断られるだろうか、そう思ったとき、彼は母親譲りの柔らかい笑顔を浮かべて私の手を取ったのだった。


その瞬間、不思議な高揚感と安心感が、ない交ぜになって胸の内に押し寄せて来るのを感じた。




「やっと、お話が出来ましたね」、そう言って笑う優しげな面差しは、色彩は違えども確かに彼女に似ていた。

声変わりが始まったばかりの少しだけ掠れた響き、柔らかな話し方。

彼と踊っていることがとても嬉しくて、自然に顔が綻ぶ。




胸が高鳴るこの感情の名前を、私はまだ知らなかった。










そうして私たちは出会ったのだ。










年上であることを差し引いても、彼がとても聡明で才に秀でていることは直ぐにわかった。

そして、周囲に将来を嘱望されながら、彼の噂には常に影の部分があることも。








だが、自分にはそんなことどうでも良かった。



彼が傍らにいてくれるだけで幸せだったし、これから先もずっと幸せでいられると確信していたから。




何故彼に惹かれるのか、何故彼の瞳を懐かしいと感じるのか、その理由を少女の自分は考えなかった。


あの頃は、目に入るあらゆるものが輝いて見え、世界は素晴らしいもので溢れていると思っていた。





少女時代の懐かしい思い出。










もう、玩具を作り、頭を撫でてくれた美しい彼女も、優しくて大好きで大切だった彼もいない。




あの気が狂いそうだった別れから、幾年月が過ぎた。



魂を抉られるような痛みは、時間とともに抜けない棘のジクジクとしたそれに変わり、やがて薄れていく。




だが、抉られた傷を埋めようとしても、醜く引き吊れた痕が元に戻ることはない。


痛みは消えても、心に刻まれた傷の記憶は消えないのだから。











追憶の日々。



もう戻らない、戻れない、優しい過去。

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