〜第1章〜 日常


[02]朝7時42分


携帯の時計を見ると7時26分。今日は始業式だから開始は9時、それで学校には電車で40分程度で着くからかなり余裕を持った登校だ。
家を出てすぐ近くの商店街を横切り、コンビニが見えた所で左に曲がり、長い緩やかな下り坂を降りていく。この下り坂は大通りになっていて、朝から沢山の車が往来している。

絵夢は「わあ〜」とか「へえ〜」とか「ふ〜ん」とか言いながら、あちこちをキョロキョロ見回している。いつもとは違う通学路だからだろうか。そういえば絵夢は中学生になるのを、かなり楽しみにしていた。

「だってお兄ちゃんと一緒に学校に行けるもん!」

……。
まあ理由は何にせよ、学校に行くのが楽しみなのは良いことじゃないか。僕の方は高校生になっても何ら中学の時と変わらない。あたりまえな日常の延長線上に過ぎない。僕の心が空っぽなのはその為だろうか。春休みが終わり、また同じ繰り返しが始まると思うと足取りが重く感じてしまう。

もうすぐいつも通りの駅が見えて来るというところで
「おわっととととと!?」
絵夢が何かを踏んで足を滑らせかける。

「あっぶないなぁ〜!」
絵夢がぷんぷんと怒った。
僕はその何かを拾い上げてみた。茶色の歪な球状で、大きさはパチンコ玉程度だ。紐がついているからネックレスだろうか?
にしては随分と不細工だ。普通は真珠とかダイヤとかエメラルドとかの宝石を使うものだが、これはそこら辺に落ちてる石ころと変わらないように見えた。

「交番に届けたほうがいいんじゃないかな?」

絵夢が言った。もっともだが、生憎この辺りは治安が良いので交番は無い。

「いやこれは元の場所に置いておこうよ。きっと持ち主も探してるだろうし、勝手にどこかへやるのも困るだろうし」
「じゃあ早く行こうよー!」

絵夢が先に走り出した。

「おいちょっと待てっつーの!」

ネックレスを側のガードレールに引っ掛ける。

「はーやーくぅー!」

走って絵夢を追い掛ける。アイツは足は誰よりも速いから高校生の僕が追い付くのにちょっと苦労した。



この時
僕はまだ気がつかなかった。このいびつな形のネックレスの真の姿を。あれが僕の未来を変え、日常を脱する入口だったということを。



しばらく後、いつもの姫咲駅に到着した。

「絵夢。電車の使い方ぐらい分かるな?」
「お兄ちゃんったら絵夢のことバカにしてるでしょ? 改札通って切符を買うんでしょ!」

それはそれは真面目な顔でおっしゃいました。少し溜め息をついて

「いいか。この前一緒に定期券を買っただろう? だからお前は切符を買わなくていい。あと順序が逆だ。切符を買ってから改札を通れ。分かったな?」

本当にこんなやつが中学生になるってのか?幼稚園児が小学校をすっ飛ばして入学したんじゃないのか?



姫咲駅は普通電車しか止まらないような小さな駅だ。あるのは古ぼけた看板と、その光景に不釣り合いな自動改札機、そしてアナログの時計。時刻は7時42分。電車が来るのは45分だからあともう少しだ。絵夢は走り疲れたのか、ベンチに腰かけている。



すると
誰かが改札を通ってきた。見慣れない女子生徒だが、同じ高校の制服だ。
あんなやついたっけ?

いや、
僕の瞳はその瞬間、彼女を捕えて離さなかった。
長く黒い髪の毛はサラサラと春風に揺れ、絹のように白く滑らかな肌。瞳は思わず吸い込まれそう。清純な顔立ちで、凛々しい。僕は彼女の横顔を遠くから離れて見ているだけなのに、僕の心はこんなにも惹かれてしまう。
その子は……例えると何になるんだろう。
全てを覆いつくし、優しさに溢れた純白の天女のようでありながら、雄々しく猛き力と情熱に満ちた戦乙女のようだ。
僕が彼女の虜になるのに、1分も時間はかからないだろう。彼女の容姿は、あらゆる色彩をもってしても模倣することはできまい。それほどまでに抜きんでた芸術作品ともいえる。どうやって僕は彼女から離れられようか?僕の空っぽな心が確かに満たされていく。僕にとって、それほどの価値のある人だった。
出来たのは息を飲むことぐらい。駅のアナウンスや電車の警笛すら耳に入らなかった。

「お兄ちゃん?」
「っ! あぁー何だ? 絵夢?」
「電車来てるよ?」
「ぉ! ああ、乗るぞ!」

電車に乗り込む。
その瞬間車掌の笛が鳴り、ドアが閉まった。開かずの扉を開くような軋む音を聞きながら電車は出発する。


いったい…さっきの少女は誰だったんだろう?
僕の知らない人だった。同じ学年じゃなくて、一個年上の先輩なのかな……。
あの顔が頭から離れられない。ただ呆然と車窓から普段通りの景色を見ていた。僕は既に日常的な一日から脱出しはじめていた。

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