第一章 始まりは突然に
[11]第十一話
如月の意識は、どこか遠い世界に飛んでいた。
真っ暗な空間に灰色の水面の波のようなものが浮き出ている。
その空間内に、如月はまるで無重力の中で浮いているかのように横たわっていた。
『我が力を望みし者よ。汝の願いは遂げられた。汝は何を犠牲となすか』
突如荘厳な雰囲気を醸し出す声が、空間内に響いた。
如月は、目を閉じたまま、
「犠牲? つまり対価、か?」
『さあ、汝は何を差し出す』
「俺は……」
如月は、これまでの自分の歩んだ人生を思い起こす。
その中でも色濃く残っていたのは、義理の父親である慶喜との生活だった。両親を知らない如月にとっては、楽しい家族の思い出はそれしかない。
そして、もう一つ。
最近出会ったネルフェニビアとの記憶。
出会ってから短い期間でしかないのに、なぜか心に強く残っていた。
「俺は、自分自身を犠牲に差し出す。守りたいものを守るために」
『それが汝の答えか』
「ああ。そのためなら呪いだろうが宿命だろうが立ち向かってやる」
『よかろう。我との契約は成された。我が力をそなたに預ける』
「それはまた頼もしいかぎりで」
『我が力は強大そのもの。道を踏み外す事なかれ』
「分かっている。自信はないが、どこぞの阿呆と一緒にしないでもらいたい」
如月はそう言うと、意識がゆっくりと遠のいていくのを感じた。
謎の声は、その最中にも話し掛けている。だが、如月の耳には単なる雑音にしか聞こえない。
そうしてゆっくりと、深い暗闇に落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「う…あ………」
「耀君!」
如月の意識が戻った直後、ネルフェニビアが心配そうな表情で覗き込むように如月を見た。
如月はゆっくりと目を開けた。
焦点がぼやけていたが、白い天井が目に入った。さらに、消毒液の匂いが鼻孔を刺激する。
「ここは……?」
「科学省の医務室です。あの直後、いきなり倒れたんですよ」
「…………そうか」
心配顔のネルフェニビアをよそに、如月は状況を把握しようと考え始めた。
ちょうどその時、周囲と空間を仕切っていた白いカーテンが開けられ、人がやって来た。
「気がついたか」
「父上、ご迷惑をおかけしました」
如月は、上体を起こして父親である慶喜に謝った。
だが、慶喜は安堵の表情を浮かべるわけではなく、どこか浮かない顔をしている。
そして後ろに控えていた白衣の女性に何かを尋ねた。
「身体に異常はないのか?」
「はい。現在のところ、目立った異常は確認されていません。これが詳細です」
慶喜は、その女性から検査結果が記されているであろう紙を手渡された。
それを見た途端、慶喜の表情が厳しいものに一変した。
「身体が動けるようなら後で大臣公務室に来い」
それだけ言うと、さっきの紙を持ったまま医務室を出て行った。
白衣の女性も、自分のデスクに何事もなかったかのように戻って行った。
数秒間の沈黙。
「あの」
「なあ」
如月とネルフェニビアは同時に話し掛けてしまい、少しはにかむ。
「ネルからどうぞ」
如月は、また横になりながら言った。
それじゃあ、とネルフェニビアは言うと、真剣な表情そのものになった。
「倒れた時、意識は別の世界へ飛びませんでしたか?」
「ん、ああ。やけに真っ暗なよく分からない世界……というか空間に飛んだな」
「やはりそうでしたか………」
ネルフェニビアは深い溜め息をついた。
「その空間で、何かありませんでしたか?」
「……威厳のある声の主と契約を交わした」
如月のその一言に、ネルフェニビアは大きく目を見開いた。
「戦いの最中に聞こえた声と、同じだったんですか?」
「あ、ああ。そうだが……」
ネルフェニビアの驚き様に思わず気落とされる如月。
自分が何かまずい事をしでかしたのではないのかと、焦って記憶を辿り始めた。しかし、詳しい事を知らないがために何が悪いのか基準が分からない。
そうこうしているうちに、ネルフェニビアが説明を始めた。
「まず詳しく知る必要があります。耀君がいたという空間、あれは精神の深層部に値する空間です」
「つまり深層心理ってわけか」
「そうです。そして問題なのが次です。威厳のある声の主と契約を交わしたと言いましたね? あれは幻獣神、もしくは精霊と呼ばれる非常に尊い誇り高き存在です。それらと契約できるのは、魔導師でも高度かつ素質ある限られた者だけです」
「RPGの世界だな……。そういえば犠牲がどうとか言っていたが」
「はい。彼らとの契約の際、契約者は自分の持つ何かを対価として犠牲にします。耀君は何を捧げたんですか?」
「守りたいものを守るために、自分自身を犠牲にした」
直後、ネルフェニビアの耳や尻尾の毛が逆立ち、怒りが爆発した。
「何を犠牲にしているんですか! その代償はあまりにも大き過ぎます!」
「と、とりあえず落ち着け、ネル」
ネルフェニビアのあまりにも凄い剣幕に、如月はたじろいだ。
だが、如月の言葉には耳も貸さずにネルフェニビアは怒り続ける。
「いいですか? 耀君がした事は恐ろしい事なんですよ? しかも契約した相手は、【紅蓮の神】と呼ばれる最強とも謳われている幻獣神ですよ? それなのに、どうして自分自身を対価に差し出すなんて………!」
「とにかく落ち着け。俺は何も知らなかっ………」
如月は、ネルフェニビアの目にあるものに気がついた。
そこに溜まっている溢れんばかりの涙。
うつむき加減で耐えてはいるが、いつ流れてもおかしくはない滴だった。
「………確かにネル言う通り、馬鹿な事をしたかもしれない。けど、守りたいものを守るためにこの道を選んだ。どんな苦難が待っていようが、守るために立ち向かうと決めた。自分が選んだこの道に後悔はしていない」
「ばかぁ……」
如月が言い終わると、ネルフェニビアは如月の胸に顔をうずめた。
時折聞こえてくる鼻を啜る音と嗚咽以外は何も聞こえない。
如月は、ネルフェニビアの頭をそっと撫でた。
ネルフェニビアの獣の耳がピクピクと動き、尻尾が波打つ様に動いている。
この時間が、いつまでも終わる事なく続けばいいのにと思う如月だった。
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