第五章
[01]月夜
時は少し遡る。
真夜中の密やかな鐘が、ハイルラルドの街に響く。
寝ているものも多いこの時刻、鐘音は一つだけ。低く、安眠を邪魔しないようにゆったりとした音色。
荘厳な響きだ。
今夜は月明かりが明るく、ポツポツと灯る町明かりと相まって、幻想的な風景を作り出している。
「今日の月は見事だねぇ。銀の皿みたいだよ」
高台の街ハイルラルドの最も高い場所に建てられた礼拝堂の塔の上、鐘衝き係である男が、漆黒の空を見上げて明るい声を上げる。
この塔の一番上に来る為には、気の遠くなるほどの階段を昇り、鐘の吊された広い空間に架けられる、太い梁を渡ってこなければならない。
体力も必要だし、度胸もいる。
一日の半分の時間が彼の役割で、その都度この行程を往復するのは大変な仕事だ。
だが彼はこの仕事が好きだったし、何よりここから一望出来る街の風景を独り占め出来るとあっては、長い階段など苦にならない。
似ているようで毎日違うハイルラルドの風景。晴れた日も雨の日も曇りも、昼も夜も違う顔を見せる。
今日は、明るい月明かりに輝く星、ゆるゆるとした風が格別な夜だった。
早咲きの花びらがふわりと風に舞い闇に漂う。
いい気持ちで鐘衝き台から街を見下ろしていた男の視界を、不意に何かが掠めた。
「ん?」
それはほんの一瞬だったので、はっきりとは捉えられない。
だが、湾の縁から傾斜に沿って建てられた家々の屋根の上、何かが跳ねた気がしたのだ。
「何だ?」
明るい月明かり。しかし素早い動きに焦点がなかなか定まらない。
鐘の塔から遥かに遠い屋根の上を、猿のように跳ねる影。まるでそこにも道があるかのようだ。
「なんだ、あれ」
影はヒョイヒョイと屋根を飛び移り、高台に少しずつ近付いてくる。
塔の上の男はひたすら目を凝らした。
そのとき、影に月の光が注がれ、そのシルエットが浮かび上がる。
「人、女か?」
どうやらぴったりとした衣服を身につけているらしい影が、跳躍に体を反らした瞬間、丸みを帯びた流れるようなラインがくっきりと露わになった。
「おぉ、身が軽いなぁ」
男は、何故そんなところを人が跳んでいるのかといった疑問を失念し、素直に感嘆する。
すると、跳躍の振動か緩やかな風のせいか、頭部を覆っていたらしい布が緩み、長い髪が一房零れ落ちた。
「うわぁ」
男は目を見張った。
零れた髪は美しい銀色をしていた。
月が銀の皿なら、それはまるで皿から零れた銀の雫。
ひらひらと跳躍に合わせて踊る一房の髪は、月光をうけて冴え冴えと輝く。
「あっ」
近付いてくるごとに顔は見えないかと、期待を込めて見つめていた男だったが、現れた時と同じくらい唐突に、銀を纏わりつかせた影は消えてしまう。
建物の隙間に降りたのか、落ちたのかは定かでない。
そこは貴族の館が連なる高台の中腹、館の庭に植えられた木々の隙間に溶け込むように消えた影は、それきり姿を見せなかった。
後には、美しいハイルラルドの夜景が広がるばかり。
「一体何だったんだ・・・・・・・・夢かな?」
それくらい魅惑的で現実味の無い光景。
先程まで、あれほど格別と思っていた夜景が、今は少しだけ色褪せてしまい、男は残念そうな色の滲む溜め息をついたのだった。
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