第八章


[08]隠蔽F




ゆらり

ゆうらり



簡素な香炉から細くたなびくのは灰色の煙。

たゆたう淡い色は、角度によって薄青にも見える。


だがそれも一瞬のこと。

たなびく煙は、ゆっくりとした歩調が起こす僅かな風に煽られ、すぐ霧散してしまう。

だが、煙とともに漂う、ツンと甘酸っぱい果実のような香りは、消失することなく大気に溶け込んでいく。

爽やかな、それでいて脳髄に絡み付いてくる香は、陰欝な地下牢に余り似つかわしくない。

香は清涼な風となり、秘そやかに確実に拡がってゆく。

鼻先を掠める僅かな香だが、果実でも置かれているのだろうか、と不思議に思っているうちに強くなっていく。

そして、気付いたときには肺の隅々まで香で満たされ、浸蝕されている。

異変を察知しても既に遅い。もはや成す術はなく、意識は朦朧と溶け、身体は弛緩してゆく。


そうして、香の充満した廊下のそこかしこに、兵士たちが音もなく倒れ込んでいた。

熟した果実のように甘酸っぱい香の睡眠毒は、深い眠りに引きずり込むのではなく、嗅いだ者をうたた寝のような浅い眠りへ誘う。

現実と夢の世界を繰り返すことで意識は混濁し、記憶は途切れ途切れに繋がれる。

まるで兵士たちが居眠りをしてしまったかのように。

そして、夢うつつのまま眠りきらない身体は、疲労が蓄積される。毒薬の効果が切れて覚醒しても、倦怠感の残るけだるい身体が、まさか薬によるものであるとは考えまい。


つくづく巧妙な仕掛けの毒薬である。




「・・・・・・・」


毒薬を自在に操る毒操師の力は本当に強力だ。

毒操師の職業に精通していないサイクレスには、蒼の能力が他の毒操師と比べてどれ程なのか判断することは出来ない。

だが、日なたの家に収蔵されていた、夥しい数の毒薬。

壁一面に作られた毒薬棚にも驚いたが、蒼が現れた地下室の入口からは更に多くの瓶が垣間見えた。

その数は、近衛連隊顧問毒操師の緋を遥かに凌ぐ。

緋は、アドルフ皇王がエナルを建国する以前から仕えていた。長い年月で生み出された毒薬は膨大な数に及ぶはず。しかもエナル建国初期、薬師として新薬開発の指揮も執っていたのだ。

それを超えるとなれば、蒼の能力は一体どれ程のものなのか。

ギルバートの見立てを信じるならば、蒼はまだ十代だという。

明晰な頭脳に美麗な容姿、並大抵の訓練では身につかない舞の腕前。



(この人は、誰なんだろう)

もう幾度思ったか知れない疑問。謎は、蒼を知るほどに大きくなる。

だが、その反面、ずば抜けて秀でた能力をすんなり受け止めている自分もいる。

飄々とした態度に、動じない不可思議な雰囲気。彼女には不可能なことなどないのでは、と思えてならない。

勿論、蒼だとて同じ人間、しかも自分より力と体格では遥かに劣る、か弱い女性だ。万能であるはずがない。
にも関わらず、自分はこの人に全く勝てる気がしない。頭脳戦は勿論、実戦に於いても。

勿論、毒薬を持ち出されたら、自分に成す術はないのだから。




兵士たちの集団うたた寝を横目、サイクレスは溜息をつく。

今も鼻腔を刺激するこの感覚。蒼から渡された気付薬は有効だ。これが無ければ、自分も同じ末路だったろう。

一度思い切り吸い込んでしまったせいか、布を当てなくとも香に惑わされない。


かといって、不意打ちの怨みが消えるわけでもないが・・・・・。

ジンジンする鼻に耐え、前を行く蒼のスラリとした背中を見つめる。


と、不意に蒼が振り返った。

後ろで簡単に纏められた二色の髪がサラリと揺れる。


「どうやらフレディスさんはこの先のようですね」


そう言って自分の背後を指差す。

暗い通路は、手探りで歩かずに済む程度に、小さな灯が置かれている。しかし、奥まで見通すことは出来ない。

だが、ここまで牢獄の扉が鉄格子だったのに対し、頑強な壁と扉で堅く閉ざされている。扉には食事の差し入れ口はあるが、深夜の今、開いている筈もない。

室内の様子は監視用の小さな窓から伺えるのみだ。

一目で、受刑者の待遇の違いがわかる。


牢獄に於ける違いとは、乃ち警戒度の差だ。

そして、近衛連隊副隊長であるファーンが、警戒さぬはずもない。



これまでの鉄格子の牢では、睡眠毒を防ぎようもない。収監された受刑者達はみな煽りをくい、洩れなく香を吸い込んでいる。

蒼とサイクレスが通る頃には、夢うつつだ。

まあ、顔を見られては困るので、計画通りなのだが。







点々とした灯が、どこまでも続いていると錯覚しそうな、暗い廊下。

外からは勿論、中からも何も聞こえてこない。


完全なる静寂。



「・・・・・凶悪犯用の独房だ」




サイクレスの小さな声が痛いほどの静寂に響く。


腕組みをしていた蒼は表情を変えずに、小さく頷いた。

「なるほど。囚人達と交流されると不都合なのでしょう。益々この先の可能性が高いですね」


近衛連隊は皇城警護が任務であるが、皇女ジュセフは民の人気が高い。

その副官であるファーンも、ジュセフを支える有能な右腕として、知名度が高い。

また噂に違わず、冷静沈着で頭の切れる男だ。
牢内でジュセフ派の受刑者を味方に取り込み、脱走や反乱を企てると懸念されているのかもしれない。

何しろ軍属きっての頭脳派と称される、ファーン=フレディスである。警戒は厳重に違いない。

正式な罪状を携えた赤旗の元で捕縛されたファーンが脱走などと、立場を危うくする行為に及ぶ筈もないが、受刑者を使って、何らかの騒動を起こす可能性はある。

警戒するに超したことはない、というわけだ。



「・・・・・蒼殿。まだ、それを使うのか?」

怖ず怖ずと蒼の手元を指差すサイクレス。

香炉からは未だ薄青の煙が、ゆらゆらと立ち上っては、果実の香を撒き散らしている。

歩行を止めたため、拡散されない煙は二人の周囲で渦を巻き、香の濃度が否が応にも増している。

眠気は誘われないが、熟れた果実を、鈴なりに実らせた果木の下にいるかのような濃厚な香に、むせ返りそうだ。


「ここから先は覗き窓にさえ気をつけていれば、囚人に顔を見られることはない。何より、副長に影響が出ては元も子もないだろう」


小窓程度の間口では、効果の程がわからない。かといって、一人一人眠らせていては時間が掛かり過ぎる。

ならば、顔を隠して探索した方が、遥かに効率的ではないだろうか。

試しに、薬の効果が効いていると思われる一番手前の独房を覗いてみる。


室内に灯は無く、地下牢である為、窓も無い。明かりと呼べるものは、サイクレスが覗き込んでいる扉の小窓と、食事を差し入れる開閉口。そして、天井に嵌め込まれた石の、僅かな隙間だけだ。


だが、上の階から零れてくる光が一条の筋となって牢内に差し込み、夜目の効く者なら中の様子を見通すのは容易い。

部屋の主である受刑者は、床に足を投げ出し、寝台に持たれている。

傾いた首から、既に意識は無いことがわかる。周囲を渦巻く濃い睡眠毒のお陰で、小窓からの侵入でも効果があったらしい。

また、俯き加減の顔は判別不能だが、身成りのだらし無さから整理整頓の鬼、ファーンでは有り得ない。


囚人とはいえ、潜入を気付かれずに済み、安堵する。だが、やはりこの先の毒薬使用には反対だ。

廊下からでは、ファーンの居場所が特定出来ないのだから。


「いえ、収監されている方々に、声を聞かれるのも得策ではありません」



チャラ



手元の香炉を静かに回し、香を拡散する蒼。


ゆわん、と空気がたわみ、果実が弾けるように、香は奥へと押し流されてゆく。


「蒼殿」

サイクレスの不機嫌そうな声には、非難の色が濃い。


「サイスさん」

こんな時でも、人が居るところでは偽名を崩さない蒼が、無感情に呼び返す。


「・・・・・・なんだ」


「貴方、あの三拍子オヤジの胸中が読めますか?」


「は?」


全く予想もしない意表を突く質問に、一瞬思考が停止する。


三拍子オヤジとは、蒼が命名した、審議会弾劾部ゼルダン第四室長のこと。


およそ鍛錬とは無縁の、エール樽のように突き出た腹と、テラテラ輝く、油の浮いた乏しい額が脳裏をよぎる。

ファーンが関わると、何かと突っ掛かるゼルダンだが、サイクレスはあの丸い姿を見掛ける度に、雑巾のように絞ってみたい衝動に駆られてならない。

あれだけ貯蔵された身体だ。搾り出せばかなりの量の油が採れるはず。兵舎の灯油にでもすれば、しばらく困らないだろう。

そんな、リサイクルしたくなる環境に優しくないオヤジの心境など、考えたこともない。

「蒼殿の意図がわからないのだが・・・」

訝し気な顔で戸惑うサイクレスに、蒼は重ねて問う。

「では、考えてみてください。あの三拍子オヤジ、ゼルダンさんは、誰を目の敵にしてましたか?」

「・・・・フレディス副長」

気乗りしないながらも、解りきった質問に、思わず応えるサイクレス。

蒼が小さく頷く。

「正解です。では次に、ゼルダンさんはフレディスさんをどう思っていましたか?嫉妬ですか?嫌悪ですか?畏怖ですか?」

「・・・・・畏怖?」

それは予想していなかった単語だ。

嫉妬と嫌悪は間違いないだろうが、畏怖とは一体どういうことか。

「ええ、畏怖です。
フレディスさんが捕縛されたときの、ゼルダンさんとのやり取りを思い出してください。すぐに解りますよ、ゼルダンさんが抱く感情の、その根本を」


拘束されたのはつい昨日の事。サイクレスは言われた通り、記憶を反芻する。






ファーンを捕縛するという大役を任されたゼルダンは、愉悦に浸っていた。

ずっと目障りだったファーン=フレディスを失脚させられる。

過度に喜ぶ姿に、妬みの深さが伺い知れた。

ファーンに馬鹿にされ、挑発されても、優位に立っていることは変わらない。腹を立てこそすれ、恐れることなど無かったはずだが・・・・・・。

「・・・・・・ああ」

思い出した。

そう、ゼルダンの態度が一変したのだ。

サイクレスの第二中隊に包囲されて。


赤旗を振り回し、滑稽なほど震え上がったゼルダン。
全員敬礼で見送りだけと判明しても、遂に己の体裁を取り戻すことは出来なかった。

馬から転がりそうに震える姿は、確かに恐怖以外の何物でもない。

「確かに、恐れていた。だが、あれだけの兵に囲まれれば誰だって・・・・」

武術の心得がない者が、あの光景を恐ろしく思わないはずはない。

「それに、あれは恐怖であって畏怖ではないだろう?」

畏れ敬う行為。

あのゼルダンがファーンを敬うことなど、有り得ない。
しかも、現在は自分が上位にあるのだ。

「いいえ、ゼルダンさんは思い知ったのですよ。フレディスさんに手を出したリスクを。そして図らずも、あれだけの人数を何の打算もなく動かした、フレディスさんの力に飲まれた」

「力?」

何の話をしているのか。
益々訝し気なサイクレスを、蒼は口の端で笑み、上目遣いに見る。

「ええ、紛れも無く力です。威厳、という名のね。
兵たちによって裏打ちされたそれは、三拍子オヤジには逆立ちしたって得られないもの」

ゼルダンは、兵たちの打算のない敬意に恐怖し、それを向けられる存在であるファーンに確かに畏怖したのだ。


まるで侵してはならない神域に足を踏み入れた、不心得者のように。



「わかりませんか?
自覚はなくとも、畏怖する人間を地下牢に入れるのですよ?」

「・・・・・それは、どういう」


「部屋の見当が附くということです」



サラリと言った蒼の言葉に、サイクレスは目を見張るばかりだった。





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