第八章
[06]隠蔽D
「・・・・・アドルフ王の一言により、事件の究明は頓挫となりました」
オークスからの手紙に何が書かれていたのか、知るものは誰もいない。そして十年経った今、手紙は所在さえ定かではない。
「国民へは、ジャルド国境付近での小競り合いに、オークスが巻き込まれて死亡したと発表されました。また、アドルフ王は側近を亡くした衝撃で体調を崩し、臥せっていると。そして、事実は隠蔽された」
公式発表の通りに記録された事件。作られた結末。
しかし、オークスを英雄と讃える国民たちはみな疑うことなく、その死を悼んだ。
十年前に起こったアドルフ皇王暗殺未遂事件は、こうして幕を閉じた。
オークスの葬儀は国を挙げて大々的に行われ、英雄に相応しい荘厳な霊廟も建てられた。
反逆の罪は余りに重い。
その事実を国民が受け止めるには、オークスの英雄としての存在が大き過ぎた。裏切りは国家に致命的な傷を遺し、国民の不信を招くことにもなりかねない。
だが、英雄の死ならば、悲劇の物語として後々まで語ることができる。
アドルフは真実よりも国家の安定を優先させたのである。
「アドルフ王のやり方が誤っていたとは言いません。歴史の浅い国において、国民の信頼は国家の最大の武器です。事実、エナル建国時もこの地に住む民の協力が絶大な威力を発揮しました。
第二第三の侵略者を作らない為にも、情報操作は必要不可欠だった」
僅か15歳の若さで覇王となったアドルフ。その成功に自身が鬼才の持ち主であったことは勿論、人材と状況に恵まれていたことも大きい。
アドルフ率いる騎馬民族には、オークスにイディオン、グレイ、ハウエル=ヒューレット他、多くの優秀な指揮官が存在し、それぞれに民と兵の尊敬を集めていた。
現在は国家の要人として第一線で働いている者から、すでに隠居しているものまで様々だが、一様に未だ英雄と讃えられている。
大昔の伝説などではない生きた英雄。それこそが伝統のないエナルを支える柱なのだ。
蒼はそっと溜め息をつく。
確かにアドルフが施した策は有効だったかもしれない。だが事件を隠蔽した理由がそれだけとも思えない。
思索に耽る蒼の溜め息が気温の低い地下道に白く立ち上り、霧散する。
それは、浮かんでは消える自らの思考の泡のように見え、蒼は目を細めた。
「・・・・・しかし、アドルフ王がオークスさんを追跡しなかった為、多くの謎は残されたまま。
失踪している以上、事件と無関係では有り得ないでしょうが、果たして本当に彼が主犯だったのか。そして事件当時ハイルラルドを離れていたオークスさんに代わり、暗殺を実行したのは誰なのか、ジャルドはどこまで介入していたのか。
などなど、詳しいことは何一つ明かされていません。何より暗殺の目的さえ定かではない。
恐らく事件の全貌を知る人間は、オークスさんを含めた数人でしょう」
毒操師とはいえ蒼も一般人。ファーンが作成した膨大な調書を読むまでは、暗殺事件などまるで知らなかったし、今回の件がなければ一生知り得なかったはずである。
事実、蒼は十年前の事件に対し、英雄の無残な死、くらいの認識しかなかった。
しかし、皇城に勤める者たちは違う。多少なりとも事情を知っていれば、公式発表で納得させられる筈もない。
そこでアドルフは、国民とは別のシナリオを用意した。
すなわち、オークスは暗殺を企てた何者かを追跡中に命を落とし、犯人はオークスに討たれて死んだと。そして犯人については身元もわからず、事件の解明は出来なかったとしたのだ。
勿論、それで全ての人々が納得したわけではない。
しかし説明は成され、真相は伏せられた。そして戒厳令も布かれた以上、追求や探索は許されない。
皇王アドルフは臣下と国民の尊敬を一身に集める至高の存在であるとともに、感情に流されない絶対無比の君主だ。
アドルフが重視する実力主義とはすなわち、実力のない人間は如何なる立場にいようと容赦をしないと同義。もとより、戒厳令を破る重犯罪を犯した以上、外部に発覚するような迂闊な人間をアドルフが赦すはずもない。
要するに隠蔽の事実に気付いても、調べるにはリスクが高すぎたのだ。
それでも隠蔽された真実に何らかの価値を見出す者は、真相を突き詰めることを諦めなかった。
結局、周囲に知られずに事件を調べられたのはほんの一握り。知力も権力も財力も兼ね備えた実力者だけであった。
そして、力ない者たちは嘘と知りつつも公式発表を受け止めるしかなく、やがて、アドルフとサイクレスが望んだように記憶から薄れていったのである。
「副長さんは頭の働く方なのですね。私に託された調書、よくあれだけの証言を目敏いアドルフ王に見つからず調べられたものです。それに調書はみな、暗殺事件を承知していた灰が知るよりもずっと詳しかった」
実際感心する。
証言は相手の承諾が必要不可欠。勿論、全てが事件について言及しているわけではない。一見すると全く関係のない、訊かれた方が気付かないものもある。だが、明らかに事件を匂わせる証言も存在している。
よく戒厳令の禁を破らせ、引き出したものだ。
ファーンの情報収集能力の高さが窺える。
「ファーンさんが何故、そして何の為にこれほどの時間と手間と労力を掛けて調べたのかはわかりません。ですが、私も仕事として引き受けた以上、必ず真相を突き止めてみせます」
「・・・・・・」
背中を向けたままだったサイクレスが、蒼の言葉に初めて振り返った。
暗くてハッキリとは捉えられない黒い顔に、驚きと恐れがない交ぜになった不安定で複雑な表情が浮かぶ。
それほど、蒼の声には強い決意が込められていたのだった。
「・・・・・だから、サイクレスさん」
ふいに顔を上げてサイクレスと目線を合わせる蒼。
色違いの瞳が暗い地下通路にあって尚、意思の力で輝いて見える。
「・・・・・」
サイクレスにはわかっていた。
次に蒼が何を言うのかを。
弾劾の強い瞳に魅入られ、サイクレスは縫い付けられたように目が離せない。
呼吸が酷く難しい。
「・・・・・貴方のお兄さんと事件の関連も、全て明るみにしなくてはなりません。
・・・・・そして貴方が何を隠しているのかも」
「・・・・・・」
応えのない沈黙は、諦めているようにも無言の抵抗にも見えた。
「サイ、私のお願いを聞いてくれるかい?」
いつもと同じ優しい声音でそう言った、兄の顔を覚えている。
・・・・・いや、忘れられないのだ。
尊敬する大好きな兄は優しく温厚で、常に笑顔を絶やさない人だった。
画家が描く肖像画も、学問所の課題で自分が描いた似顔絵も、兄の顔はみな同じ。優しい微笑み。
だが、自分に「お願い」をした兄は、いつもと同じではなかった。
「・・・・兄上?」
何かを懸命に抑えているような、苦しく切ない、そして哀しい顔。
薄曇りの雲を透かす夕暮れの空のような透明で柔らかい瞳が、重苦しい雲の垂れ込めた、今にも泣き出しそうな暗い色に変貌している。
「兄上、お加減でも悪いのですか?緋殿をお呼びしましょうか?」
思わず尋ねたのは、まるで酷い痛みに堪えているように見えたから。
「・・・・・!」
だがその言葉に兄は驚き、目を見開いた。
自分がどんな表情をしていたのか、全く気付いていなかったのだ。
瞳に動揺が走る。それもいつもの兄からは考えられないこと。
兄は、驚きと不安で目を離せない自分から顔を背け、逃げるように瞼を伏せた。
「兄上」
「・・・・・・」
呼び掛けにも応えず、眉間に皺を寄せる兄。沈痛な表情に、それ以上話し掛けることも出来ない。
二人の間に沈黙が落ちる。
そして何かを振り切るように目を開けたときには、もういつもの笑顔に戻っていた。
子供だった俺は唐突に理解した。
兄は笑顔で、感情の全てを綺麗に隠していたのだと。
そして笑顔は、優しさだけを顕すのではないということも。
兄は取り繕うのを諦めたように溜め息をついて小さく首を振り、俺の肩を掴んだ。
「・・・・・サイ、お前の協力がどうしても必要なんだ。とても大事な事だ。聞いてくれるか?」
覗き込む顔には、もう仮面のような笑顔はない。真剣で必死な張り詰めた表情。
これこそ笑顔の下の本当の顔。胸が締め付けられるほど透明に澄んだ、真摯な眼差し。
否が応でも「お願い」の重要性を理解し、緊張が込み上げてくる。
その反面、真剣に向き合ってくれている兄の気持ちが嬉しくて、自分も精一杯応えようと表情を引き締め顎を上げた。
「兄上に大切な事は、僕にとっても同じです」
それは、自分の気持ちを伝える為に言える、最上級の言葉だった。
「・・・・・」
兄は僅かに眉を上げて見つめ返してくると、目元を細めてふんわり微笑んだ。
いつもと同じ笑顔のはずなのに、なぜか初めて見るような気がして、頬に熱が上る。
「ありがとう」
兄の声が、胸の中で染み渡るように響いた。
「だが、全ては大きな過ちだった。俺の行動が惨事を招いてしまったのだ」
狂おしいまでに沈鬱な表情のサイクレスの声音には、明らかな後悔が滲んでいる。
「・・・・・貴方は兄上に地下通路の秘密を教えてしまったのですね」
「!」
冷静で抑揚のない声。それを発する蒼の顔も、サイクレスとは対照的に無表情なまま。
だが、声は確実に真相を言い当てていた。
「何を驚くことがあります?」
腕を組んで首を傾げる蒼。不思議がっている様子は、余りに無感情なためわかりづらい。
「十年前、子供だった貴方に頼るなど、その特殊な知識以外有り得ません。そして、貴方はそのことを大きく後悔している。となれば答えは一つしかない」
「・・・・・」
言い返す言葉が見つからない。
「問題は、貴方が一体どこに繋がる道を教えてしまったのかです」
「・・・・それは」
言い淀むサイクレス。
だが、蒼の輝く双眼はごまかしを許さない。
「貴方は兄上のお願いを聴き、皇城内に繋がる地下通路を教えてしまった。そしてそれは・・・・・」
続く蒼の言葉に、サイクレスは小さく頷いたのだった。
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