〜第5章〜


[44]2007年7月19日 夜9時12分


ハレンはその日も、いつもと同じように学校に通っていた。
自分の秘密が明らかになっても、今まで通り普通に清奈や悠、他のクラスメートと仲良くしていこうと考えていたからだ。


しかし、それをいつまでも続けるのも躊躇われた。

自分についてまわる存在。それは自分の命を狙う存在。
もう、彼女はすぐ近くにいる。
気持ちが悪かった。
冷えきったピアノ線が自分の周りに張り巡らされているようだ。
窒息されそうな程の焦燥感が、日を増す旅にハレンを襲った。

今、彼女はいつも通り、家に帰ろうと校門に向かっていた。
今日も、あの気配は感じるだけで、格別何もしてこないと思っていた。

「あれ?」

彼女は無意識に、あの裏庭に来ていた。
クローバーが繁る、若緑の地面の上だ。
彼女は、思い悩んでいた時、いつも4つ葉を探していた。
ただの逃避行動かもしれない。
こんなことしたって、あの頃は一生戻って来ない。今日も、いくら探しても3つ葉ばかりだ。


幸せを探すことは難しい。4つ葉は、見つけてしまえば、とても幸せ。
でも、4つ葉も、葉っぱを1枚取ったら、それが4つ葉だったなどと誰が信じるだろうか?
それが、幸せの象徴だと誰が気づくだろう。
ハレンは、足を止める。
もう、4つ葉探しを諦めた。
自分には、もう4つ葉を――幸せを――掴むことはできない……。

「ああ、ちょっと退いて退いて!」

急に背中から声がかけられ、ハレンは振り向いた。
見るとそこには、黄色いヘルメットを被った2人の、少し年を取った男だった。

「今日から工事始まるんよ」
「工事……って、なんですか?」
「ああ、あれよ。知らんかったんか?」

男が指を指した方を見ると、新たに校舎が増築されるという旨の看板が掲げられていた。
もうすぐこの学校は夏休みに入る。その間に行うのだろう。

その看板は、自分に代わる新たなここの主のように、ハレンは感じていた。

地面のクローバーが、とても寂しそうだった。

「分かりました」

ハレンはいつも通りの笑顔を浮かべ、腕を回しながら2人の男のもとを去る。


「随分可愛い顔しとんなあ」

もう片割れの男が言うが、彼女の気持ちを、知る由も無い。








その暗い感情は、日が落ちてもなお続いた。

ハレンは、何故か家に帰らずに外をゆっくり歩いていた。
何となく、帰宅して休息できぬような気がしたからである。
当ても無く
途方に暮れる。
嫌に寒い夜だった。
まるで、あの時の再現のようだ。
見えない糸に操られるように、当ても無く歩く。

「……」

静かだった。
自分が向かっている先は、どうやら学校の方らしい。巡り廻って、元来た道を逆戻りしているのだ。

いつもは家へと逃げ帰るように(それも逃避にすぎない)帰るハレンが、今日はどうしても帰ることができなかった。

テストで欠点を取ってしまい、家で親に見せないといけない感覚に近いものがあるかもしれないが、生憎、家に親などいるはずもない。

考えて、みる。
これは、何かに導かれているのではないかと。
自分は無意識に何かの糸に吊されていて、宙ぶらりん。
地に足が着いていなくて、上にいる変な道化師が私をゆっくり前に進める。







今、誰かの声がした。
小さく……いや、自分の頭の中に駆け巡るノイズが大きすぎてよく聞こえない。
「や」と「ね」のような声が聞こえた気がする。
ノイズがブツブツと途切れていく。

電波環境の悪いラジオのように、或いは傷だらけのCDのように、まるで関係の無い音が不規則に聞こえてくる。

「ん」と「お」も聞こえてきた。
相変わらず意味のない雑音が頭を支配する。

ジジジジ……
ジジジジジジ……

体が重くなる。
ゆっくり歩いているのに心臓の鼓動が異常に早まる。とてつもない疲労で、前へ倒れそうだ。
続けて起こる目眩(めまい)うっすらと気づく。

この雑音は、私のなかで拒否反応を起こしている証。この徒労も何を表すか気づく。

月を見る。
続いて自分の左手を見た。痙攣しているように、中指の指先が震える。

《……ダメ》

ステラが口を開く。

《行っては……ダメ》

それはもう解っている。
自分の体が、行くな、と告げる。
臆病な自分にとって、今は余りにも強すぎる窮地。

道化師は自分を止めない。だんだん……自分の体と地面の距離が縮まる。
自分の体が小さくなっていくように見えた。
足に力が入らなくなっていく。
膝まづく。
もう歩く力も無い。
どうやら糸が途切れたようだ。
地に伏す。
頭にはまだ、暗い砂嵐のような音が鳴る。
自分の目の前に白猫の垂れた尻尾を見たとき、音は途切れた。

全てが、暗くなった。











目を、うっすらと開ける。視界が霞み、意識は薄青い世界のまどろみの中へと流れている。
見下ろしているのは、黒いドレスを身に纏う、背丈の小さな女の子だった。

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