第六章
[04]潜入@
「もう、お聞きになりましたか?」
「聞きましたとも」
「例のですか」
「ええ、例のです」
「ついに」
「はい、遂にあの目障りな男が」
「ではこれで益々」
「ええ、益々・・・・」
広大な皇城の一画、密やかに交わされる会話。
噂話の域を出ていないのは、誰かに聞かれない為の用心。
昼夜問わず繰り広げられる貴族たちの暗躍と密談が、表立つことは決してない。国の内外で言われている皇位継承者紛争も、表面的には穏やかなものだ。
抗争はあくまでも水面下。密やかに、波紋さえ立てないよう細心の注意を払って、激化の一途を辿っていた。
そんな中で、暗殺の常套手段とも言える毒薬が出回るのは、事情を考えれば無理からぬこと。
非合法の毒屋が登場するのも、こういった匂いを嗅ぎつけるからなのだろう。
そして、ここにも密談するものたちが・・・。
「殺されたのはエロール=ツァイス伯爵。貴族派派閥、セルシウス皇子支持者の一人だ。死因は神経毒によるショック死。首筋に、極小さな針が刺さっていたという」
僅かにかすれた低い声が静かに語る。
「セルシウス・・・・・ああ、リュシアンヌ皇妃の末の皇子ですね。またマイナーなとこが来ましたね」
答える声には相変わらず抑揚がない。だが今は微かに不愉快そうな色が滲む。
「全くよな。セルシウス皇子一派には大貴族が少ない。こんなところの中心人物を殺めたとて、何が変わるわけでもなかろうに・・・・・・と言いたいところだが、実はそうでもない」
「えっ?」
意外な言葉に顔を上げる蒼。肩口で濡れた髪が揺れる。
対する灰は、薄い遮光カーテンが引かれて適度な日差しが注ぐ温室の窓辺、優美なカップに注がれた紅茶を一口飲む。
さらさらと滑る白い髪が、陽光を受けて真珠のような輝きを放っている。
ここは姫館魅煉最奥、灰の部屋。
拘束された副隊長ファーンの、全隊員によるお見送り作戦を企画した蒼は、その指揮を第二中隊長補佐官ダンジェに任せ、サイクレスとともにこの魅煉まで引き上げてきた。
長かった夜はすっかり明け、今はゆるゆるとした朝の時間だ。
一晩中駆けずり回り、さすがに疲労が出た二人は、明け方から仮眠を取り、姫館の風呂を借りてサッパリしたところである。
しかし、のんびりもしていられない。遣ることは山積みなのだ。
「セルシウス皇子支持の一派は、最近気になる動きをしていてな」
芳醇な紅茶の香りに目を細める灰。
「動き?」
蒼は灰の方にちらりと顔を向ける。こちらは準備に忙しく、紅茶など飲んではいられない。
「そう、セルシウス皇子に妾妃ディアの姪を娶せようと画策している」
「ディア妃の姪・・・・ですか」
「ディアの兄であるイディオン=ルファはアドルフ王とも旧知の仲。なにせ元から同じ一族、若かりし時分を共に戦った戦友とも言える。
そのイディオンの末の娘が、昨今夫に先立たれ皇城に身を置いているそうな。前夫との間には子もおらぬし、年の頃は三十前後。セルシウス皇子の側室には丁度いいというわけだ」
カップをカフェテーブルに置き、傍らの籠に盛られた果物に手を伸ばす灰。大振りの葡萄を一粒つまんで口に含む。
「妾妃ディアの姪と第三皇子との婚姻・・・・・つまりそれは」
考え込む蒼の、昨晩はもつれてぐるぐるになっていた巻き毛が、櫛を入れられ丁寧に梳かれていく。
「ディア妃、というよりハーディス皇子一派との繋がりを持つことが目的ですか」
蒼の水分を含んだ髪が、陽光を反射して艶めいていた。
同一族出身でアドルフ王の幼なじみでもあるディアは、年が近いこともあり、ほんの小さな頃からアドルフに嫁ぐことを一族によって定められていた。
しかし、その後周辺民族を平定し、商業国をも飲み込んだアドルフにとって婚姻はもはや政治の一つ。
建国の覇王、そして国を治める皇王に即位した後では、政治上の繋がりを持たない婚姻は意味を成さなくなってしまったのだ。
結果、元から同族のディアは正室である皇妃ではなく、側室の妾妃となった。
アドルフが商人たちの反発を納める手段として、商業議会代表議長アーセナル=ニフェルの一人娘リュシアンヌを皇妃に迎えたことは、幼い頃からアドルフを慕い花嫁を夢見てきたディアにとって、耐え難い悲しみだった。
そして、その事実は彼女気持ちの問題だけでは済まなかったのである。
妾妃であっても、アドルフが幼なじみのディアを蔑ろにすることはなかったし、寧ろ何の打算もない関係である彼女を気兼ねなく愛した。
後は歳月がディアの悲しみを和らげる、はずだった。
しかし、未だ騎馬民族の意識を捨てられず、国境警備軍として渓谷砂漠周辺から離れられない者たちには、妾妃ディアは納得のいく話ではない。
彼らには、皇王の妃や皇太子、ひいては次代皇王を商人の血筋から迎えることが我慢ならなかったのだ。
国境警備軍を始めとする騎馬民族出自の一派は、ディアを正統な皇妃に、そしてその子ハーディスこそが、騎馬民族建国の国、エナル皇国を継ぐに相応しいと訴えた。
だが、アドルフ王が訴えを聞き入れディアを皇妃にすることはない。
となれば一派の期待は自然ハーディスの即位に委ねられた。
そのハーディスの従姉妹とリュシアンヌの子であるセルシウス皇子の婚姻。それは、決して相容れぬ立場である派閥同士の同盟関係を意味していた。
「皇位継承紛争も、歳月が経てば形を変えていくものですね」
くるくるした毛先を長い指で整えながら蒼が呟く。
何やら考え込んでいるらしい。
「弱きものが、強きものに日和るのは自然だ。特にこの五年の紛争には皇王の介入がまるでないしな。
月日が経つにつれ様々な憶測が飛び交い、みな冷静な判断から遠くなってゆく。無数の勢力は自然に淘汰され、その中で生き残ったものが、その手に称号を掴む資格を持つのであろう」
灰の口調はいつもより重い。二つ目の葡萄を陽に透かし、その深い紫色をじっと見つめる。
お家騒動に毒殺は付き物とはいえ、自分たちの感知しないところで製造された毒薬が使用されれば、毒操師の信用問題に関わる。立場を脅かされることにもなりかねない。
毒屋の横行を灰は憂いた。
「・・・・・気に入りませんね」
「うん?」
ポツリと呟く蒼の声に、灰は葡萄を飲み込み長椅子を振り返る。
普段は厚い前髪と群青のローブに隠れて見えない蒼の顔。しかし今は窓から差し込む朝の白い光に晒されている。
長椅子に座る蒼の俯き加減の横顔には、はっきりと不機嫌な色が浮かび上がっていた。
灰は軽く目を見張る。
「お前が、そうも感情を面に出すとは珍しい」
本気で驚いている灰に、金と青の瞳が瞬く。
「私にだって感情くらいありますよ。だから気に入らないんです。
エナル皇国の皇位継承者争いはもう五年。いくら表面上は変わらず政務国務が行われているとはいえ、いがみ合いの歪みが出ない筈はありません」
再びカップを持ち上げた灰も、その言葉に僅かに動きを止める。
「確かにな、派閥が出来れば人事に影響が出る。この五年、殆ど異動がない。新たに任命された爵位もないな」
「互いの緩衝が妨げになり、人を動かせない状態になっているのです。
まるで手詰まりなチェス。駒たちはプレイヤーの指示がなくて足踏みせざるを得ない。そして当のプレイヤーである皇王は高みの見物です。駒が右往左往するのを楽しんでいる。
気に入りませんね。王こそキングとしてチェス盤に引きずりおろしたくなる」
抑揚なく言葉を紡ぐ蒼の整った口元には、微かに不適な笑みが刻まれていた。
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