第四章
[08]策士F
「では、サイクレスさん。そろそろお暇しましょうか」
蒼はそういうと外套を払い、長椅子から立ち上がった。
「え、あ、ああ」
状況がよく飲み込めていないサイクレスもつられて腰を浮かす。
と、そこで、先ほど愛姫たちがお茶を入れに出て行ったことを思い出した。
勿論、サイクレスの心境からすれば、のんびりお茶など飲んでいる場合ではない。だが、あんなに楽しそうにしていたのだ。好意を無にするのも憚られる。
結局立ち上がりかけ、また座り直すサイクレス。
蒼はそんなサイクレスの心理が手に取るようにわかったらしい。苦笑しているような声音になる。
「大丈夫、お茶は来ませんよ。灰の[お茶を出す]は席を外せと同義語で、[すぐお茶が来る]は、時間を掛けずに早く話せ、という意味です」
・・・・何だ、それは。
「あれ、その目、全然信用してませんね。嘘なんてついてないですよ。ねえ、灰」
振られた灰は、簡素で柔らかな服の下、ゆったりと足を組む。
「さあ、確かにお茶は出ないがな」
そしてしらばっくれた。
「何ですか、味方してくれないんですか」
「お前は人使いが荒すぎる故、余分なサービス精神は発揮できん」
不服そうな蒼に灰はにべもない。
「つれないですねぇ。折角、情報提供したのに」
「私の仕事と称して、お前が知りたい情報を仕入れる気だろう?」
「当たり前です。情報は使わないと勿体ないでしょう。大体あなた、情報屋じゃないから言って、いつも流してくれないじゃないですか。こういうときくらい使われてください」
しれっと答える。
「何度も言うようだが、お前のそういうところが嫌なのだ」
灰は溜め息をついて、指で摘んだ紙片をヒラヒラと振る。
「仕方ない。出来るだけのことはやっておく。だがあまり期待せぬように」
「他ならぬ監察士、灰殿ですからね。期待して待ってますよ」
紙片の代わりに手を振り返し、蒼はそう言い残すと踵を返した。
「ホントに嫌な奴だ」
椅子の背もたれに身体を預け、灰が悪態をつく。
二人の用件はそれで終わったようで、蒼の背中は出口を目指し、木々の向こうに見えなくなる。
長椅子に座ったままのサイクレスは完全に取り残されてしまった。
「・・・・・あ、いや、じゃあ、俺も失礼して・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・あなたは、選ぶことになるであろう」
「え、」
気まずい雰囲気の中、退出の挨拶もそこそこに立ち上がりかけたサイクレスへ、灰がポツンと呟いた。
「今の立場と・・・・・過去を天秤にかけて」
サイクレスの顔が険しくなる。
「・・・・・・・それは、どういう・・・・・・・」
過去・・・・・・それは自分が返上、いや捨てたものだ。
確かに幼ない頃の記憶。だがあのときの決意は今も揺らがない。
名を捨てた。その意味は十分理解している。
捨てた母方の姓は、今はもうエナルのどこにも存在しない。
兄がどこにもいないように。
「昔の話だ。今更何を選ぶ。あなたは事情を知っているようだが、もう十年も前の事。ティスの姓などみな忘れている」
サイクレス自身、思い出す機会も随分減った。
しかしサイクレスの強い視線にも灰は揺らがない。
真っ直ぐに見つめてくるその整った白い面は、作り物めいて、息をしていることすら不思議に思える。
「人の憎悪や哀しみは、月日が経って薄らぐことはあっても、決して消えはしないもの」
「それは、一体」
誰を指している?
しかし灰はサイクレスの言外の問いには答えなかった。
「忘れないことだ」
それきり口を閉ざした。
扉を潜ると蒼が壁に寄りかかって立っていた。
「蒼殿」
それを見て、蒼が自分と灰の会話を聞かないよう、気を回してくれたことに気付く。
「では行きましょうか」
そして、遅れた自分に何も尋ねない。
「蒼殿・・・・・・」
「はい」
「・・・・・・・・・なぜ、灰殿はここに?」
皇王とも謁見することが出来る灰。それこそこんな所にいる必要はない。
蒼は自分たちが歩いて来た長い廊下を見やる。
真夜中もとうに過ぎた時刻、新たな客はおらず誰も歩いていない。
「灰は、ここで生まれました」
静かな口調だった。
「この姫館魅煉は、昔から特殊能力者が集まる場所でした。そしてそんな能力者たちを連れてくるのは大抵毒操師だったのです」
「えっ?でもさっき・・・・・・・・・・・・・・」
親に売られてきたと。
「それもあります。ですが、全てではありません。
ねえサイクレスさん、特殊能力を持った子の親はどうすると思います?」
「え、」
蒼は顎を反らして天井を見る。淡い小さな草花が描かれている中、大輪の薔薇の赤色が鮮やかに目に焼き付く。
まるでそこだけ異色なように。
「親たちは私たちを訪ねてくるんですよ。
自分の子を殺す為に」
蒼の言葉は誰もいない廊下を流れていった。
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