第五章
[10]罠H
「処置が早かった為、母も身ごもっていた子供も大事には至らなかった」
「・・・・その子供は」
「俺の兄だ」
客室の寝台に寝かされたクレディアが目覚めた時、傍らにはリュシアンヌが付き添っていた。
「妃殿下・・・・私は」
クレディアの目覚めにホッとしたリュシアンヌは、柔らかな微笑を浮かべる。
「よかった。あなた、回廊沿いの樫の木に倒れていたのよ」
「・・・・・倒れ・・・・・・ああ」
地下通路から這い出したことを思い出す。
「・・・・何だか、お腹が酷く痛くなって」
前も見えない豪雨。突然下腹部に走った激痛。
立っていることも出来なくなり、ぐらりと体が傾いだ。
そこから先はもう覚えていない。
「あんな酷い雨の中を歩いてくるなんて。何て無茶なことをするの。お腹に赤ちゃんがいるのに」
「・・・・・え?」
赤ちゃん?
思いも寄らぬ言葉に、クレディアの表情が固まる。
「まあ、知らなかったの?。医師とラナイの話では、もう四ヶ月目に入るそうよ」
・・・・・四ヶ月!!
今度は一変、青い瞳を見開くクレディア。
「どうしたの?ああ、子供が出来て驚いているのね。私もリャドルを身ごもったとき、とても驚いたわ。自分の中にもう一つ命が宿っているのですもの。何だか不思議な気持ちになったものよ」
その時のことを思い出したのか、リュシアンヌは頬に手を充てて懐かしそうに語る。
「大丈夫、巫女だからといっても、結婚や出産が許されないわけではないのですから」
クレディアの驚きを、初めての妊娠に戸惑っている為と思ったリュシアンヌは、安心させるように寝台の上の手を握る。
他国の場合、神官や巫女は、神に心身を捧げることが神との結婚を意味し、俗世での結婚は許されていない。
だが、エナル皇国の神官位は違う。
神との繋がりにそれほど重きを置かれていないのだ。
実際、クレディアの父サグラの生活は一般の民と何も変わらなかった。
「そうね。私から陛下にお話してもいいわ。あなたはまだ若いのだから、仕事などに捕らわれず、好きな人と結ばれて欲しいもの」
慈愛に満ちた微笑み。平凡な顔立ちのリュシアンヌがこんな穏やかな笑顔を浮かべる時は、いつもより数段美しく見える。
「・・・・・」
しかし、クレディアの宝石のように青い瞳からは涙が零れ、ツウッと一筋こめかみへと流れた。
「クレディア・・・?」
「・・・・・」
無言で泣き続けるクレディア。溢れては流れる透明な雫が、こめかみの銀髪と枕カバーのレースを濡らしていく。
「・・・・・」
その意味をどう受けとったのかはわからない。
だが、ふいに握っていたの手を放すと、指先でクレディアの涙をそっと拭い、リュシアンヌは部屋を出て行った。
そして離宮の改装は見送りとなった。
「程なくして、母はアーネスト=ヘーゲル、父に嫁いだ。そして、エナル皇国の神官位は空位となったのだ」
通路の気温は外よりも低い。春の夜だ。話し続けていたサイクレスの息が、残像のように白く立ち上る。
「貴方のお兄様の父上は・・・・・」
ある考えが、蒼の脳裏に浮かぶ。だが、それでは・・・・・・。
「・・・・真実はわからない。母は詳しいことは何も語らず、父もまた尋ねなかった。そして10年前に母が死んで、もう誰も知ることは出来なくなった」
その声は、どこかほっとしているように響く。
「だが、そんなことは係なく父は母を愛していた。巫女になる前、母に求愛するものは後を絶たなかったそうだが、父もまたその一人だった。事情を知らない子供の頃は、二人の仲を疑ったことなどなく、ごく普通の夫婦だと思っていた」
目的地への道々、サイクレスは背中を向けたままだ。
だが、その時々の感情が声音に現れる。
今それは複雑な色を帯びていた。
「しかし、神官位は無くなったのではなく、空位なのですね。という事はいずれ誰かがその位に就くと。そしてそれが・・・・」
今までの話を聞けば答えはわかりきっている。
「・・・・・」
サイクレスは黙ったまま。
「これほど複雑な地下通路、一朝一夕で覚えられるものではありません。貴方は次の神官になるべく、お母上から全ての知識を受け継いだのではないですか?」
もはや確信だ。
前を行くサイクレスの短い銀髪が、漏れ出る細い光の下で微かに揺れる。
「・・・・俺にとって、この地下通路は遊び場だった。毎日のように母に連れられては、探検気分で歩き回る。道は自然と覚えてしまった」
「・・・・・では」
「ああ、恐らく母は遊びと称して俺に地下通路の地理を覚えさせたのだろう」
「それでは、実質神官位を継いだのと同じことです。それとも、貴方のお兄様も知識を受け継がれたのですか?
貴方と同じく、この地下通路を遊び場にしていたのですか?」
サイクレスの背中に話し掛ける蒼の口調は厳しい。歯切れの悪いサイクレスに苛立っているのだ。
「・・・・・いや、兄は知らなかった。俺も話していない」
「それは貴方のお母上に口止めされたからでしょう?」
「・・・・・そうだ」
声色から、苦虫を噛み潰したような様子が読み取れる。
「ならば・・・・・」
「だが俺はティスの姓を捨てた。もう関係ない」
蒼の言葉を遮るように、強い口調でいい放つサイクレス。
一方蒼は呆れたように溜め息をつく。
「それで終わったと思っていたのですか?
姓は捨てられても、記憶は消せないのですよ?
貴方のその知識はもう特殊能力と言ってもいい。貴方を手に入れることがどれだけ強大な力になるか、わからないのですか?」
「だが、もう10年も前のことだ。第一地下通路自体の存在は秘密ではないし、神官位の真の意味を知る人間など一握りの筈」
「では、その一握りが今回の黒幕だったら?」
「え?」
「貴方の存在は国を揺るがします。ひいては皇位継承者争いも」
蒼の声が通路に細く響いた。
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