〜第5章〜


[50]2007年7月20日 夜中4時29分A


「酷い有り様ですね……」
リリウスが少し寒さに身震いしながら言う。その時隣にいた男は煙草をくゆらし、噛み締めた。

「来やがった」
「何がですか?」
「仲間だ。いや、今のタイミングで来るのはマズい」

校門の前に両足を地につけて立っている二人は、目の前の氷の壁を見上げていた。

「だが、仕方ねえ行くしかないな」

男は、己の右手拳に黒の手袋をはめる。
拳を開いては閉じ、また開いてはそれを見つめる。

「離れてろ、メイド」

リリウスが数歩後ろへ下がる。手には美しい銅色の光沢。弓を手にしていた。それはやわらかな曲線を描き、弦は対照的に固い芯を思わせるほど張っている。


男は右腕をゆっくりと回し、煙草を口から落として足で踏み火を消した。
男は目を細くして、その壁を見る。決して脆そうに見えないが、頑丈とも呼べないその壁を。

空気は冷やされ張りつめていた。息を吸うと氷を喉に押し込められたような感覚がする。
その凍結した世界を


一瞬で加速する。
拳は熱された鉄のように熱く、さらに固い。
男の足が地を蹴ったかと思うと、瞬く間に男は壁へ向かい突撃する。
風を切る。空を裂く。
肌を刺すような痛み。
凍てついた世界は耳の感覚が失われてしまうほど。
その感覚が鈍った耳に入る、つんざくような破壊音。
壁にピキピキと亀裂が入る。男の拳を中心にして、網の目のように広がる。更には湯気まで立ち上る。

男は拳を抜く。下に下ろした。
男はただ立っている。
崩れさる氷の壁などものともしない。


リリウスは驚愕していた。その男の圧倒的な存在感に。
まるで周囲の世界がその男一人によって踊らされているようだった。
壁もその役目を失い、屑の山へと変えられる。


「す、すご……」

リリウスは顔を覆った。そして彼女は思う。【自分のマスター】の力に、ただ、驚く。

「別に凄くねえよ」

男は振り返りながら答えた。

「この壁は俺達を足止めするつもりなんざ欠片も無い。壊されて当然だ」
「え? ど、どういうことでしょう?」
「だいたいの予想が着くだろうが。歪みも無く、ここまで酷い芸当をして、俺や他のタイムトラベラーの連中が近づいていやがる。中にも一人……人質にでも取られたんだろうが」


男は前へ歩き出す。
屑山を軽い身ごなしで乗り越えた。

「気をつけろ。確実にこの先には罠があるからな」

―――――――――


僕は体育館の屋上から下の様子をうかがった。
粉雪が降り、地を淡い純白に染めている。そして校舎は完全に凍結しており、中に侵入するのは不可能に思えた。

「あそこに行くにはどうすればいいのかな」

あそこというのは、もちろん校舎の屋上だ。だがそこは氷のドームが覆い被され、外から侵入は困難に思われる。
僕はパルスに意見を求めた。

《あのドームを溶解するには莫大な魔力エネルギーが必要です。校舎から入るほうが結果的に最善の方法だと思います》

僕の右隣に清奈も来た。

「フェルミから聞いた話では、凍ってるのは外側だけで、内側は大丈夫みたい」
「じゃあ問題は、どこから侵入するか、だね」
《最も安全かつ早いルートは……どうやら、一箇所だけ氷に阻まれていない所がありますね》

清奈の呼吸音が、一瞬途切れた。

《不器用か器用か分からぬ干渉だな。僅かに侵入できる隙間が存在する。清奈、もう分かるな?》

え? 何が?

「悠。お前はしばらくここで待機して」
「え……いいけど、何で?」
「余りにも出来すぎてるから」

ちょっとそれは答えになってないんじゃ……。


清奈はすぐに体育館から飛び降り、下に着地。そのまま黒髪をたなびかせ校舎の方向へ疾走した。
置いてけぼり……。


―――――――――

確信はまだ持てない。だけどあのドームの中は最も危険な区域。

無論、悠を置いたことには理由がある。

まず第一に、悠の安全を最大限に確保すること。
悠にはパルスがついているから、氷柱による攻撃はほぼ無効化できる。そして、今回はゆらぎを発端とするネブラの侵略ではない。その正体不明の存在はハレンをあたかも人質のように扱っている。そして、あたかも自分の位置を知らしめるかのように屋上に巨大な陣地を作り、あたかもその中に侵入しやすいように隙間が存在する。

私を相手にするのには、いえ、私たちを相手にするのには異様なほどずさんな作戦だ。

違う。これは計算に入れたずさんなのだ。
高い確率で、私たちをあのドーム内に呼び込んでいる。

ならばどうするか。
外側に悠、もう一人のタイムトラベラーを存在させておけばいい。


私はどうやら、こんなふうに仲間を用いて思考しているようだ。それは退化であり、また進化でもあった。

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