第43章


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彼女はぐっとこらえるように口元を歪めてから、無理に引き出した様子の笑みを浮かべた。
<ねえ、最後なんだから、せめて一度くらいは本当の名前で呼んでくれませんか?>
 最後の別れの時くらいは本当の名前で呼んでくれないか、と彼女は求めた。
だが、俺はそれを突き放すようにすげなく再び首を横に振るった。
”生憎だが……それは出来ない”
 死と灰と悪意しか齎してこなかった俺が彼女の本当の名を口に出してしまっては、
その名を延いては彼女の存在を汚してしまうような気がして、とても呼ぶ事は出来なかった。
これ以上、俺は立ち入る事は出来ない。見守っていく事は許されない。
ならばせめて、神が本当にいるのならば彼女の献身に相応の加護を与えてくれますよう。
”さあ、あるべき場所に帰るんだ。もう二度と俺達の様な者に捕まることのないよう。
生涯、平穏無事に暮らしていけるよう。健闘を祈る、『シスター』”
 俺は思いを託して彼女をそう呼び、別れの敬礼をした。
<本当に、強情な方>
 彼女は今にも零れ落ちそうな程に目に涙を一杯に溜め、くす、と俺の強情さを笑った。
<送ってくれて、ありがとう。今までお世話になりました。あなたもこの先、どうかご無事で>
 今までありがとうと彼女は深々とお辞儀した後、名残を惜しむように木立の奥に足を向けた。
 一陣の乾いた風が吹き渡り、俺の毛並みと草葉をさわさわと揺れ動かした。
舞い上がった砂と灰のせいか、彼女の背が陽炎のように少し滲んで見えた。



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