第六章
[07]潜入C
「全く、ひやひやさせないでください」
小声には抑揚がない。
格好はいつもとまるで違うが、中身はやはり蒼のままだ。
しかし、先程は完全に別人だった。
あの顔、あの声、あの口調、全然知らない女だ。近寄られたときは息が詰まり頭に血が上って、この時程肌を染めておいて良かったと思ったことはない。
鼻孔をくすぐる甘い香りに全身が痺れた。
・・・・・痺れ?
「蒼殿、もしや、あなたのその香・・・・・」
黒い肌の青年サイクレスは、前を歩く舞姫に話し掛ける。
「もっと小声で。貴方は異国の剣士という設定なんですよ。それに私はソーニャです」
蒼の低く鋭い声。だがやはり抑揚はない。
先程とのあまりのギャップに、自分の記憶の方を疑ってしまう。
「確かに香りを使った毒薬もあります。ただ今回の私の香油は、毒というより媚薬ですね」
さらりと巻き髪を揺らす蒼。金の筋が滑らかな光を放ち、甘い香りを運ぶ。
「・・・・・やはり」
さすがに毒操師。外見はどんなに美しかろうが抜け目がない。
「何ですか? 媚薬と言ってもさほど強力なものではありませんよ。少量ですし。大体、皇城の女性たちが使う香油や香水の多くにも、媚薬は含まれているんですよ」
「え?」
初耳な話に思わず聞き返すサイクレス。
「貴方、今まで女性たちに言い寄られて、別段好きでもないのにくらっと来た、なんてことありませんか?」
「くらっと・・・・・」
というと、先程の感覚のことだろうか。
黒褐色の顔を上に向け、蒼の言葉を反芻するように記憶を探るサイクレス。
「・・・・・・・」
しばしの沈黙。
そして。
「無いな」
結論を出した。
その言葉に蒼は背後をチラリと振り返る。だがサイクレスとは目を合わせない。
「・・・・・それは、くらっと来た経験がですか?それとも女性に言い寄られたことがですか?」
「・・・・・後者だ」
若干不服そうに聞こえる。
「・・・・そうですか。失礼しました」
一瞬、サイクレスからは見えない蒼の目に怪訝そうな色が走るが、敢えて突っ込まない。
「ふっ」
その時、小さな笑いが二人の近くで起こった。
蒼の前を歩く、旅団の演奏担当者だ。手には丸い本体に首のついた弦楽器を手にしている。
「何ですか?、ギルバートさん」
蒼の呼び掛けに振り返ったのは細身の若い男。二十歳を幾つか超えたくらいで、琥珀色の細目に癖のある金茶の髪が爽やかな印象だ。
ギルバートは口元の笑いをそのままにコホンと咳払いをする。どうやら二人の会話を聞いていて、思わず声が漏れてしまったらしい。
「失礼、サイス君は凄く純粋だなと思って」
そして2人と会話をする為、歩調を少し緩くする。
「そんなに格好いいのに、女性には馴れてないんだねぇ」
親しみやすく人懐こい笑顔を向けられ、黒髪黒褐色の肌の中で、唯一元の藍色のままの瞳を少し見開くサイクレス。
相対したことがない人種に戸惑っているようだ。
その様子は本当に言葉が通じない異国人である。
「ギルバートさんは、サイスさんと仲良くしたいのですか?」
ソーニャと偽名を使う蒼が、サイクレスの偽名をさり気なく言う。しかし口調はギルバート相手でもいつもの調子だ。
「仲良く、というなら俺はソーニャちゃんとの方がいいけど、まあ気にはなるかな。俺に勝るとも劣らない美男子だし」
ニコニコと、細目を更に細めて蒼に笑顔を向けるギルバート。
目は細いが、目尻が少し下がったその顔は、サイクレスのような凄みはないが確かに整っている。
いや、見ようによっては威圧感タップリのサイクレスよりも好ましいと思われるだろう。
「なるほど。ギルバートさんはいい男ですからね」
全く抑揚のない声音でそう言われても、普通なら誉められた気がしないものだが、ギルバートは嬉しそうに笑みを深くする。
「嬉しいなあ、ソーニャちゃんは見る目がありそうだから」
なかなか図太い男だ。
「しかし、掛け値なく俺が見てもサイス君はモテると思うよ。言い寄られたことがないんじゃなくて、気付いてなかったんじゃない?」
悪戯っぽく片頬を持ち上げる。
「そっ、んなことは・・・・・」
大きな声を上げかけ、とっさに自分の口を塞ぎながらも反論するサイクレス。
「俺は本当にモテないだけだ」
小声でそう言うと、今度こそ憮然としてそっぽを向く。
一方蒼は形の良い顎を掴み考え込んだ。
「確かに・・・・・貴方ならありそうです」
「なっ、そ、ソーニャ殿?」
「サイスさん、貴方、宴の席で妙に女性からの視線を感じたとか、さほど混み合ってはいないのにやたらと女性がぶつかってくるとか、ぶつかった女性が潤んだ瞳でじっと見上げてくるとか、残り香というには強烈に香りが衣服に付いたとか・・・・・心当たりないですか?」
「え、いや・・・・」
今度は一気にまくし立てられ混乱するサイクレス。
言われるまま自分の記憶を辿る。
「宴の席・・・・・・・・・・・そういえば、もの説いたげな視線を女性の集団から受けたことはある。だが、そちらを向くと目を逸らされた。敵意も殺気も無かったから特に気にしなかったのだが」
「・・・殺気、ですか」
「ああ、害意は無かったから、女性たちはたまたまこちらを向いていただけだったんだろう。
後は、ダンスの輪から弾かれるのか、よく女性が飛び出してくるな。丁度俺の正面なので抱き留めると、皆一様に安堵の溜め息を洩らす。きっと嫌な相手から逃げられて安心したのだろう。目に涙まで浮かべて礼を言われる。そのまま倒れそうになるご婦人もおられるし」
「・・・・・そう、ですか。それで香りは?」
蒼の無表情が更に能面のようになっているのにも気付かずに、サイクレスはやや上を向いて記憶を探る。
傍らではギルバートが俯いたまま、笑いを必死にこらえているのか肩が小刻みに震えている。
「・・・・・香り、余り意識したことはないな。宴の席は様々な匂いが混ざり合っているし、女性たちは同じような香りだから、誰のものか特定出来ない。確かに、宴の後は匂いを落とすのに苦労するが」
「ぶっ」
遂に堪えきれなくなったギルバートが噴き出した。
次いで爆笑する。
「はははははっ、サイス君、鈍いっ、それは鈍いよ。もう芸だよそれは」
蒼は無表情で呆れ果てていた。
「貴方の前ではご婦人方の努力も、丸焼きの子豚の香りと一緒なんですね」
「えっ?」
二人の反応にサイクレスは戸惑う。何か可笑しなことを言っただろうか。
長い溜め息を吐き、蒼は子供に言い含めるようにゆっくり話し出す。
「いいですか。ご婦人方は貴方へ恋する眼差しを送っていたのであって、貴方に恨みを持っているわけでも、ましてや殺したいと思ってもいません。
それに、普通に考えて輪から飛び出すダンスなど、どれだけ激しいんですか。しかもジャストタイミングで貴方の正面。ある訳ないでしょう、そんな偶然。ご婦人方はダンスに乗じて貴方に近づこうと、決死のダイビングをされているんです。そして貴方を見つめ、少しでも自分の香りを覚えて貰おうと身を寄せるのです」
「人によっては気付かれないように、自分の香水そっとかけたりするよね」
女性に慣れているらしいギルバート、目尻の涙を拭きながら付け足す。
「・・・・・」
ショックを受けるサイクレス。言葉も無い。
まさか、自分の知らない所でそんな策略が練られているとは夢にも思わなかった。
あんなに華奢でなよやかな女性たちが、実は狙った獲物(男)は逃がさない肉食獣であることを知らされ、寒気を覚える。
そして思わず呟いた。
「女性って・・・・・」
「そうそう、女性って」
「うんうん、女の人って」
奇しくも蒼とギルバートがそれを受けて同時に頷く。
だが、次の言葉は全くの別物だった。
「・・・・・恐ろしい」
「可愛いですよね」
「可愛いよねー」
三人は意見の相違によりハモらなかった。
絶句するサイクレスを置いて、二人は盛り上がる。
「そこまでするご婦人方のいじらしさは、本当に微笑ましいですよ」
「ホント、可愛いったらないよね。俺なんか香水付けられそうになったとき、そっと手を掴んで思わずキスしちゃったもん」
「あー、わかります。私も抱き締めてしまいますね。そのようなことをしなくても、こうすれば貴女の香りに包まれますよと」
「いやソーニャちゃん、君って罪な子だね」
ヒートアップする二人。もはやサイクレスの知らない世界だ。
特に今の蒼は完璧な美女だけに、無表情も心なしか嬉しそうに見える様子はかなり異常だ。
彼らとは相容れない。
サイクレスは一人青い空に思いを馳せた。
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