第七章
[04]疑惑B
「またお会いしましたな」
潜った扉の向こう、聞こえて来たのは壮年の男の声。
頑健で威厳に満ちた政務長官、ハウエル=ヒューレットが両手を広げて椅子から立ち上がる。
「ようこそ、エナル皇国へ。異国の姫君」
そう言うと、蒼に向かい客をもてなす礼をとった。
(・・・・・帰りたい)
眼前で繰り広げられる寸劇のようなやり取りに、サイクレスの心臓は早鐘を打ちっぱなしだった。
出来る従者という注文を忠実にこなすギルバートは、まるで挑発しているかのような発言をするし、蒼に至っては見たこともない人物に変貌している。
心細く切なそうな顔も、頬を染めてはにかむ初々しい顔も、正直な感想を言えば、
(誰これ?)
という感じだ。
舞姫ソーニャの妖艶さ、王女ソーニャの清廉さ、そして恋する乙女の可憐さ。どれも本来の蒼とは全く繋がらず、戸惑うを通り越してもはや理解不能である。
だが当の蒼は役どころを完全に使い分けており、混同する様子もない。
(これも特殊能力と言うのだろうか・・・・・)
蒼もギルバートもどうしてそんなに変わる事が出来るのか、感心するばかりだ。
だが、外見だけならサイクレスの変身も負けてはいない。実際、追悼の宴で顔見知りの貴族に気付かれることも、玻璃の門で近衛の隊員たちに悟られることも無かったのだ。
警備を預かる近衛連隊中隊長としては若干複雑な気持ちだが、それだけ変装が完璧だったのだろうと自分を納得させる。
だが所詮サイクレスが変われたのは外見だけ。
喋るな、無表情を突き通せと二人からきつく言われたサイクレスの胸中は大荒れである。
辺境の剣士サイスは公用語がわからないという設定だ。言葉が通じないのだから、勿論蒼たちの会話に反応してはならない。
サイクレスにとって、これが非常に困難を極めた。
耳が聞こえないわけではないから音には反応する。だが会話は無関心。
(無だ無。俺は何もわからない。言葉が通じない。反応しない。顔に出さない。無、無、無・・・)
心の中で念仏のように唱え、会話が耳に入らないよう意識を集中する。
(無・無・無・無・無・・・)
まるで敬虔な宗教家である。
そして必死の行動が功を奏したのか、元々猪突猛進の為に集中し過ぎて周りが見えなくなるのか、剣士サイスは僅かに眉間の皺を残しつつも何とか無表情を貫いた。
(今なら何をされても無心で通せそうな気がする)
まるで悟りを開いた気分のサイクレス。
だが、彼の苦悩はそれだけではなかった。
「私が貴方に視線を送ったら、前後の状況に関係なく私を抱き寄せてください」
脳裏に甦るのは、約束の時間前に打ち合わせた、蒼の言葉。
その言葉に固まるサイクレスに対し、蒼は強く念を押してきた。
「何度も言うようですが、貴方の愛情表現で今後の出方が変わります。黒幕の行動も変わるはずです。貴方がソーニャを愛さなければ、計画の成功は有り得ません。キーマンは貴方、いえ剣士サイスなのです」
当のソーニャ本人から抑揚の無い淡々無感情でそんなことを言われても、まるで実感が掴めない。
それでなくても朴念仁で鈍感男のサイクレスは色恋の回路が断絶気味だ。
もう過剰負荷で焼き切れそうである。
そして実行の時―――。
「・・・・・」
「・・・・・・・・・」
無言で見つめる蒼、固まるサイクレス。
不安な気持ちに耐えきれず、恋人を頼るソーニャのいじらしくて愛らしいはずの顔が、例えようもなく恐ろしい。
まさに蛇に睨まれた蛙。
(・・・・肩を、抱かね・・ば・・・・)
まるで鉛が入っているかのように重い腕を使命感と根性で持ち上げ、細いが実は華奢ではない蒼の肩を何とか抱き寄せる。
だが、間近に迫る蒼の顔を直視することは出来ず、恋人同士がするような微笑み合いなど全く不可能だった。
無言で正面を見続けるサイクレス。
必死で保っていた無表情も眉間にビシッと深い皺が走り、完全に崩壊する。
苦悶の表情。悟りなど遠い彼方に消え失せた。
しかし、奇しくもその表情は、王女を傷つけられたことに腹を立てる剣士サイスの演出に効果てきめんだった。
そうとは知らないサイクレス、蒼の肩に置いたまま動かせなかった自分の手に蒼のそれが重ねられた瞬間、心臓が飛び出しそうな勢いで跳ね上がった。
(失敗か?)
元々早かった鼓動が、爆発寸前に加速する。
そのとき、手の甲を掴んでいた蒼の親指が、サイクレスの手のひらにゆっくりと円を描いた。
「!」
視線を下に向けると、美しく結い上げられた蒼の頭が小さく頷く。
「・・・・・・・・・」
自分は何とか乗り切れたらしい。
その瞬間、サイクレスの全身から力が抜けた。
だが、彼らの計画は始まったばかり。
サイクレスの苦悩は暫く続きそうだった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、蒼たちは目を見張った。
小さな隠し扉からは想像出来ないほど、その部屋は豪奢だった。
部屋自体は小さい。広間の精々十分の一しかない。だがその内装と調度品は、皇王の自室と言われても信じられる程見事に整えられ、豪華さだけではない重厚な深みもあった。
複雑な幾何学模様を描く組木細工の床に足が埋もれそうな絨毯。部屋の中央には革張りの長椅子と優美なテーブルが置かれている。
また、大きさこそ広間に劣るが、細工の見事さは段違いの繊細で美しい水晶のシャンデリア。
壁に飾られた巨大な絵には窓のない小部屋に相応しく、澄み切った青空と輝く水面が美しいハイルラルドの海が描かれている。まるで皇城から見える景色をそのまま切り取ったかのようだ。
不思議な部屋。
広間の片隅にこれほどの部屋を作る意味は何なのだろう。
蒼は驚いた表情を作るソーニャの中で冷静に分析していた。
「桃嵩国とは、また遠いところから来られた。道々随分苦労されたことでしょう」
椅子から立ち上がり蒼たちを出迎えるヒューレットは、まるでこの部屋の主であるかのようにどっしりと落ち着いている。
「し、失礼いたしました。まさかヒューレット様がいらっしゃるとは」
対する王女役蒼は慌てた様子を作り、その場に膝をついて礼をとる。従者役のギルバートもそれに倣った。
辺境の剣士サイスも己の立場を忘れて反射的に動こうとしたが、一瞬の間にギルバートが放った礫を膝に受け、ギリギリ踏みとどまる。
端からは、王女と従者の突然の行動に剣士が驚いたように見えたことだろう。
「私、桃嵩国第三王女、トウ・カ=ソーニャと申します。まずはこのような形で入国、登城したこと心よりお詫び申し上げます。無礼無作法は重々承知ですが、どうしても身分を隠す必要があったのです」
切実なソーニャの表情は真に迫っている。
また両膝をつき、両腕を交差させるという独特の礼は、「あなたを信頼しこの身を預けます」という桃嵩国で最上のものだ。
亡命国エナルに全てを任せるというソーニャの気持ちがそこに顕されていた。
「姫君、そのような礼は不要です。どうぞこちらにお座りになってください。詳しいお話はそれから伺いましょう」
ヒューレットは謝罪するソーニャに近づくと、腰を屈めて組み合わされていた手をほどいた。
そして驚き顔を挙げるソーニャに微笑むと、そのしなやかで細い身体を立ち上がらせ、自分が座っていた向かいの長椅子に導く。
「こんな夜更けですが、お茶も用意しました。まずはお掛けください」
ヒューレットに手を引かれ戸惑う様子のソーニャ。だが、話した事で多少緊張が解けたのか、素直に腰を下ろす。
従者ギルバートは礼の形を崩さずその場に控え、剣士サイスは会話が理解出来ないのか扉近くに立ちっぱなしである。
「ソーニャ姫、改めて自己紹介をさせて頂こう、私は政務長官ハウエル=ヒューレット。彼は私の補佐を勤める政務次官レギアス=ウェスティンだ」
ソーニャを座らせた後、自らも座り直すヒューレット。
その椅子の後ろでは、控えていたウェスティンが黙礼をする。型に嵌った礼は非の打ち所が無いが、教本でもみているかのようでまるで感情が籠もっていない。
無表情な顔、好意的なヒューレットに対し、ソーニャを疑っているのがまるわかりだ。
だが蒼は神妙な顔を崩さない。ウェスティンの態度に気付かぬフリを通した。
今は信じて貰うのが先決だ。
小部屋には蒼たち三人とハーディス皇子、政務長官ヒューレット次官ウェスティン、そしてもう一人、先程から異様な風体の男が部屋の隅で蒼たちのやり取りをじっと観察していた。
「・・・・・」
男は蒼が部屋に入ってきたときから全く動いていない。
痩せこけた頬に浅黒い肌、頭髪はない。落ち窪んだ眼窩の中で異様に輝く瞳は掠れたような薄青だ。
緩やかな黒の上下、全身を包む黒の肩掛け。サイスに負けず劣らず何連もの首飾りが胸元を飾り、腕を組む手首には幅広の腕輪が嵌められている。
蒼は勿論、部屋に入ったときから男の存在に気づいていた。
男は蒼と目が合っても反応を示さない。だが、絡みつくような視線がその後も途切れることはなかった。
「そしてこちらは初めてですな、姫。祈祷師のヒョウ殿です」
ヒューレットが男を紹介する。
「・・・・・祈祷師」
呟く蒼。
記憶に引っ掛かるものがあった。
「薬師と祈祷師が治療にあたっている・・・・・」
呼び起こされたのは、依頼に来たときのサイクレスの話。ではこの男がジュセフの夫、ディオルガを治療しているという祈祷師か。
なるほど、見るからに怪しい。
本来このような人物が一国の皇城に入り込むなど常識的に言って有り得ない。国教がそれを許さないからだ。
しかしエナルは自然神信仰国。それはある意味宗教の自由がまかり通っているのと同義。結果、怪しげな信仰宗教団体の本拠地が出来るなど、宗教の無秩序と化していた。
ヒョウと呼ばれた男は壁から身を放すと肩掛けを払い、腰を屈めるエナルのものとも、桃嵩国とも違う独特の礼をした。
「初めてお目にかかる、山岳の姫よ。我は祈祷師ヒョウ。階級は三位である。以後見知り置きを」
ひび割れ掠れた低い声。聞き取りづらいにもかかわらず、それは雑音のように耳に残った。
蒼の中で激しく警鐘が鳴る。椅子に腰掛けたその身が、演技でなく硬直してゆく。指先が冷え、代わりに頬に血が上る。
(この祈祷師!)
肩掛けを翻した時、微かに漂った甘く重い香。
それは紛れもなく、睡眠毒の香りであった。
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